演題:『FM民放黎明期と放研とわたし』 〜独立自尊への歩み〜
                                              (株)テレサイトアイ   代表取締役
                                            放送研究部OB会会長
                                            木村 正義  氏
                                                   (1965年度 文学部広報学科卒業)
《講師紹介 吉田副会長》


 それではこれから
1965年度ご卒業の木村正義さんにご講演をいただきますが、OB会のメンバーは今さらご紹介も必要ないかもしれませんが、1956年に放送研究部が創立されまして、それから
10年間放送研究部を学内・学外に対し、その地位を押し上げ、引き上げされてきた、言わば“中興の祖”的な功績のある方です。ご卒業されて以降のことは、これからのご講演の中でお話になるだろうと思いますので、私からの紹介はこの程度にして、早速講演をいただきたいと思います。
ご静聴よろしくお願い致します。





【講演】    ただ今、吉田副会長に紹介されて、何を話そうかなと思うと、段々緊張してきました。

  まず初めにこのたびの熊本地震で後輩の学生に犠牲者が出ましたこと、また災害で犠牲になった方々、多くの被災された
方々に、心からご冥福をお祈り申し上げ、お見舞いを申し上げます。
 本来ならば放送界のプロダクションで最近まで現役で活躍されていた、中村潔くんにご講演いただく予定だったのですが、
都合により私がピンチヒッターに指名されました。

さて、どうして「FM黎明期と放研と私」という題になったかと申しますと、私が入学した1962年から卒業した1966年の間、
東海大学がFM実用化にむけた実験局の「FM東海」をやっていた時代と重なって、ちょうどその時代に私が放研に入部しましたので、そこから今日の話を進めて参りたいと思います。
 その前に、放研OB会設立10周年ということで、これまでの講演の流れを振り返ってみたいと思います。
 放研の創部50周年、今から10年前にこのOB会が設立されました。OB会総会では、開催ごとに記念講演をいただいています。第6回総会から第9回総会は、現在放送界で活躍されている放研OBの生々しい体験のお話しでした。講演の記録は
OB会のホームページにも出ておりますので是非一度ごらんいただきたいと思います。

 FM東海と、私が就職したトリオという会社は「産学共同」ということでFM放送の普及で協力し合っていたという偶然があります。私はその宣伝部に電波媒体担当として入社しました。FM東海は当時実用化実験局ということでしたが、トリオは(広告規模的には)大したことはないのですがFM民放業界ではNo.1のスポンサーでした。実験局としてはこの後FM局の民放化ということになりますが、当時FM民放局の開局をめぐって東海大学と当時の郵政省(現在の総務省)との間で大げんかが始まります。これからその辺までの話もしたいと思います。

 その前に私の生い立ちを、少しお話ししたいと思います。私は
1942年(戦時中)に旧中華民国(中華人民共和国)の北支・河北省で生まれました。ちなみに同じ年にこの東海大学が創立されました。母親は助産婦、父親は軍におりました。生まれた時の体重は580匁
(約2,200g)の未熟児でした。
  当時日本は強権政治が行われていました。日本が支那事変で向こうに攻め込んで、最終的には日本が真珠湾攻撃で仕掛け、これが1941年12月。私はその直後1942年に生まれました。母は敗戦が近づいた頃(憲兵の不審な動きを察知して)どうしても「日本に帰る」と決意して、軍にいた父を強く説得して、どうにか終戦前に日本に帰ることが出来ました。私の本籍は広島県竹原市ですが、1944年4月に無事広島に帰って、父は再招集され、広島の軍隊に戻りました。そして翌年8月6日広島の原爆投下で亡くなりました。そのあと私は大阪の小学校、中学校にあがって、中学時代に放送部に入ったということです。

 東海大学放送研究部は、1956年に吉村先輩が立ち上げたわけですが、このころ私は熱心なラジオ少年でした。当時流行した真空管式の5球スーパーラジオなどを作ったものです。大阪・日本橋の電気街にはよく通いました。高校入学は1958年。あのころは音楽が好きで、クラシック音楽に夢中になっていました。クラブは物理部、ラジオ部に入って、このとき初めてトリオの9R−4Jという有名なアマチュア無線の受信機に出会い、こうしたものにのめりこんでいった時代です。高校3年の時に放送部が出来て、特に入りたかったわけではなかったのですが、請われてそれでも一所懸命手伝いました、進学校でいちばん勉強しなければならない時期に、放送部の活動にうつつを抜かしたのです。その結果は“一浪”。
そして理系から文系に変わりました。

  ところで皆さんは番組を作る時に、“フェードイン”とか“フェードアウト”というのを使っていますか?アッテネーターというボリュームで音量調整をして音楽の切り替えをする技法ですが、昔は(テープ全盛時代)これを録音テープのみの編集技法でも行っていました。テープとハサミとスプライシングテープ(セロテープのようなもの)を使って行う、一種の職人芸だったのですよ。音楽を編集する醍醐味みたいなものでした。

  話は戻りますが、当時のステレオ放送というのは、まだFMステレオ放送などない時代で、NHKのラジオ第一、同第二、大阪の民放でいえば朝日放送と新日本放送(現・毎日放送(MBS))とが、音楽の右チャンネル、左チャンネルと同時に電波を出し合って、聞く方は2台のラジオでそれぞれ同時に受信して同じ音楽をステレオで聴くというものでした。

 さて大学というところは、クラブ活動でも学業でもどちらでも良いのですが、なにか「生きるための小さなヒントを探してほしい」。最近の学生の部活動の話を聞くと、学科に縛られる、出席日数に縛られるなどかなり厳しいようですが、われわれの時代はそれほどではなかったように思います。部活に打ち込んでいた私の出席日数や出席率は必要最小限(この加減がなかなか難しい)でしたが、私の卒業時の取得単位は確か206単位(規定は142単位)で、必須科目の「現代文明論」は「優」で卒業しています。要するにこの時期というのは、どんなことに夢中になっていてもいいんですよね。お金を賭けている訳ではないし、事業(仕事)であるわけでもないし、でも、純粋にここ(大学)で何か「自分がやった!!」と自信をつけると、その後大きく人生で役立つことになるということです。

  私が部活で皆さんにお話したいのは1年生(1回生)は、将棋でいう駒(歩)であってほしい。何事にも一所懸命、無我夢中。ハングリー精神でチャレンジして欲しいと思います。私の1年の時(1962年)に、建学祭で初めて「テレビ放送」をやりました。当時は工業用テレビ(ITV)を通信機メーカーに交渉して機材を借用して、大道具、小道具まで自分たちの手作りでテレビドラマを制作しました。(※全部録画ではなくライブ生放送です)そして第1回「東海ミュージック・イン」というのも始めました。

  そして放研2年の時(1963年)は、放研としても全国レベルで評価される活動を何か残さなければならないと。われわれが大学に入った時は、創立して20年しか経っていません。先ほど校内の掲示板を見たら、わが校は世界の大学18,000校のなかで900位以内に位置するようですが、当時は大学も放送研究部も出来てまだ数年です。まだ何の実績もありません。
 東海大学が有名になってきたのは野球の首都大学リーグで原辰徳選手が活躍して、全国的に有名になったということからですが、要は何か実績を残さなければならないということで、我が部が加盟していた大学放送連盟(大放連・関東地区)で行われていた、ラジオドラマコンクールや録音構成コンクールに積極的に参加出品し、録音構成コンクールで大放連で2位、全日本学生放送連合(全学放・全国)で3位という見事な成績を収めることが出来ました。
 
 3年生(1964年)で再任(委員長二期目)され、私は部員のみんなを指導していく立場になったということで、「リーダーは演出家たれ」すなわち部員が楽しく、積極的に、やる気になって出来るよう、そのような場を作ろうということで、この年、「九州一周取材旅行」というのを行いました。取材旅行というのは、2台の車にキャンプ資材、取材用機材その他を満載し、そこに隊員14名が分乗して40日間、途中で離脱は絶対できないという厳しい旅行です。詳しくは後程話が出ます。
 
 4年生(1965年)は「よきアドバイザーたれ」ということで、鎌倉に住む橋本泰三郎くんの自宅(アトリエ付きの豪邸)で合宿の座長をしたりして、4年になってもクラブ活動から手を抜かなかったというか、まだまだ未練たっぷりだったというわけです。
 今の部活は3年生までで、4年生には全く何もさせてくれないんでしょ? われわれの時は建学祭で“ヤキトリ屋さん”をやりました。この時は木村兼昭君が中心で材料一切を仕入れてくれました。そして5人の“ミス放研”におもてなしをしていただきました。この時の失敗談ですが、今では時効ですからお話しますが、教室のテーブルの上に砂を敷いて、その上にブロックを積んで、その上に炭を載せ、アミを置いてヤキトリをならべて、とにかく良く売れました。こんなことでよく事故が起こらなかったと思います。全部売れて、しっかり稼いで、アッ! その儲け分が後のみんなでの打ち上げパーティーのやきとりとビールに化けました。(※差しさわりのある講演会での部分を校閲でSKが差し替えました)

 さて、当時のFM東海には代々木スタジオ(代々木校舎内)と、虎ノ門スタジオ(虎ノ門・発明会館)が有りました。代々木スタジオには松田守尊さん(放研技術課)と田中洋さん(アナウンス課・故人)という先輩がおられ、二人ともここでアルバイトをされていました。二人とも放研の先輩(上級生)ですが、抜群の技術力を待っておられました。FM実験局とはいえ、本物の放送局のベテランのスタッフなのですから当然のことです。
(松田先輩がミキサーのときは緊張して、キューを送る手が震えたことを思い出します。)
ここで『完パケ』のテープを作る制作作業をする訳ですが、皆さん『完パケ』という言葉は分かりますか? 
収録、編集を終えて、オンエアするばかりになったテープのことです。
 
 一方、虎ノ門スタジオには吉村(創部者)さんと郷田さんという先輩がおられました。
 私が2年の時(1963年)に「ドラコン」、「録コン」作品を制作した話をしましたが、この時この本物のスタジオを使わせてもらいました。当然、音質は抜群です。他校のどこにも負けません。余談ですがこの頃、ディスクジョッキーの音楽(レコード)の入手には、非常に苦労しました。FM東海には当時いろいろなレコード会社から、是非宣伝してくれということで、新譜のレコードが集まります。これを吉村先輩が、放送終了後に電々公社のPCM回線で虎ノ門から代々木に送って来るわけです。FM東海はその時“実験局”でしたから、一日の放送が終了したあとで“実験放送”として、この新譜をFM電波で放送してくれました。この時オンエアされる曲目をリクエストしているのが私たちです。その放送を業務用2トラックのレコーダーで録音し、そのテープをわれわれがいただいて、この音楽素材で放研が放送する昼の定時番組で使わせていただくというまことにぜいたくなお話しです。

 放研では、夏、秋(冬)、春の合宿をやっていました。夏の合宿というのは新入部員を一所懸命教育します。秋(冬)の合宿というのは、部員のみんなが上級生になっていくためのチームプレーというか、礎を作るための合宿、春は幹部養成目的の、次の新入部員を迎えるための合宿というように行われます。また、アナウンス部ではアナウンス発表会、録音構成コンクール、ドラマコンクール、体育祭、そして建学祭、さらに東海ミュージックインの企画があって、1年間通してとにかく忙しい。授業に出る暇はありませんでした。

思い出に残る放研のベスト5。沢山ありますが・・・

@ この中で一番印象に残っているのは先ほども少し触れましたが「九州一周旅行」です。
  この取材旅行に触発され後に東北、中四国とか、後輩の取材旅行が続くわけです。
  この当時取材旅行などを一緒にやった仲間が、最近も70歳になってラスベガスに行
  ったり、イエローストンのキャンプ旅行をしたりしています。
  この「九州取材旅行」で旅行中のエピソードですが、本取材旅行は約40日間オール
  キャンプで行く予定だったのですが、実  は野営は7日だけでした。あとはほとんど民
  宿です。学生の特権をフルに活用して、いろいろ助けていただいてやってきたということ
  でした。
  最も印象に残っているのは、あれはとても雨の激しい日で、どうしてもキャンプのテント
  が張れないということで、一日だけ自  衛隊の鹿屋基地に泊めてもらいお世話になっ
  た時のことです。メンバーの中に麗しい女性が一人いました。われわれ男子が順番に
  入浴させていただいて、さて彼女がお風呂に入る時の自衛隊の対応がすごいことになっ
  たのです。万が一不祥事が  あったらと、浴室の入口に歩哨が立つのです。銃をかま
  えた屈強な二尉が二人、昔でいえば中尉です。彼女がお風呂に入っている間中、入口
  に2人立って守っていてくれるのです。すごい光景ですね。彼女の名は草野惠子さん(現
  在の大喜多夫人)。ここではまた翌朝日本旅館で豪華な朝食をご馳走になりました。
  今思い起こせばおそらく「卒業したら自衛隊に入って下さいね」というメッセージ?という
  ことだったんですね。
 
A これも先ほど少しお話をした、建学祭でのテレビ放送です。佐藤誠先輩がOB会第3回
  (2009年)の記念総会でお話された「進取の気象」の中でお話されていました。
  この時は芝電(その後日立電子と合併)から工業用テレビ(ITV)を借りて、また大学の周辺の商店に、スポンサー広告
  を出してもらうため一所懸命走り回りました。

B あと「東海ミュージック・イン」ですが、これは大学のバンドサークルとプロのミュージシャンとのジョイントコンサートの催し
  です。出演交渉、ステージの演出、司会、プロモーション、チケットの販売まで、本格的なステージ運営を実践で勉強しま
  した。この時司会をした鳥飼さんはあのころ既にプロに負けない名司会をされていました。皆さんもご存じと思いますが、
  舞台の場面転換をする時は、緞帳が下りたその裏側では、テンヤワンヤでひっくり返っているのですが、お客様は幕が
  開くのをじっと待っているのですが、それを退屈させない話術で場を繋ぐわけです。これを見事にやってくれました。
  この催しは第6回か7回ぐらいまで毎年行われました。 

C あとは録音構成ですがこれは私が制作して、全日本放送連合の第2回大会で画期的な賞を取りました。ナレーターは
  曽我泰朗さん(前南海放送会長)

D 当時放研のなかで「あそび課」というのがありました。「自動車部」というのがありました。「専属バンド」ももっていました。
  「TBC効果団」というのがありました。これはドラマの効果音を録る為に、寒風のさなか真夜中の駒沢公園に出かけ、
  アベックの足音を抜き足差し足しながら録ったり、多分今の時代だったら職務質問がらみのえらい事件になったと思い
  ますが、こんなこともやっていました。

 ここで当時の取材旅行の写真をご覧ください。この写真は部員の久我谷さんが主に撮影したものです。みんな良い顔して
いますね。
 こんな車で東京を出発して九州一周を果たしまた。車はもちろん中古で75,000円と30,000円ほどで買いました。この時の
参加費は一人およそ20,000円です。(※大卒初任給¥14,000円位の時代)14名の参加で総額28万円。これで車を買っ
て、スポンサーを募って物資、機材などの提供をいただき、プロパンガスを積んで、食料を積んで、意気揚々と出発したわけで
す。トヨエースというのは最大積載量が850キロですが、成人が10人乗りますから少なくとも500キロ。資材合わせて全部で
1.5t〜2t。当然積載量オーバーですので、毎日のようにパンクします。自分たちでパンク修理をするんですが、最初モタモタ
していたタイヤ交換は、そのうち慣れて5〜10分くらいで手早く出来るようになり楽々と旅行が続けられた、という訳です。メン
バーはもちろん“取材旅行”目的に行ったのですが、全員がベテランの「自動車部員」状態でした。この時の隊長の大喜多さん
は、運転免許の種別は第1種および第2種のすべての種類の免許を所持、3級整備士の資格も持っていて、軌道車(電車・機
関車)以外は何でも運転できるという強者でした。
 
   − − −  簡単なコメントを話しながら、久我谷さんのアルバムから何枚かの写真が映写された。− − −

  建学祭で行ったテレビ放送ですが、大道具、小道具、衣装まですべて自分たちの手作りです。障子が写っていますが、その後ろにあるガラス戸は大道具担当の「いなせな大工」の村居先輩が創られたものです。すべて教室内に臨時に作ったテレビスタジオです。あの頃VTRはありませんから、すべて生放送です。出演者はもちろん部員たちです。頭髪はふだんリーゼントで格好付けた長髪の渡辺愿くん(故人)がヘアーパウダーで白くして、俳優の笠智衆のような渋い父親役を見事に演じてくれました。そのほかもちろんマイクのセッティング、照明のセッティングなどみんなでやりました。

 FM東海とトリオは、産学共同ということですが、1966年に私はトリオに入社し宣伝部に入りました。この秋のトリオのメインキャッチコピーはセンセーショナルに「私たちはもう真空管でステレオを作るのをやめました」でした。(このとき工場の購買部に「もう真空管は仕入れないんですか」という問い合わせが殺到したというエピソードがあります)この頃からトリオのステレオ製品はトランジスタや集積回路に変わっていきました。真空管がすべてなくなった訳ではありませんよ(アマチュア無線機器等はまだ真空管を利用)。東海大学はFM実験局として事業化を推進しますし、トリオは受信機の普及ということで、ともにFM放送の普及に協力しあった関係でした。その頃東海大学のなかにはFM受信機を(トリオが委託)作る工場(勤労奨学生制度)があって、文字通り「産学共同」でこの事業を推進しておりました。
トリオはその後ビクターと合併して、現在はJVCケンウッドという会社になっています。

 1960年からFM民放実用化実験局は、コマーシャルを流すことが出来るようになっていました。トリオは“全時報スポット”を提供していました。この時報スポットの直接担当者だったのが私です。この時報スポットの効果を上げるためにかなりの心血を注ぎました。
 たとえば「トリオが12時をお知らせします。 ポーン」とい
うナレーションだけの10秒ほどのスポットです。とはいえこの中でCM部分というのは「トリオが」という部分だけで、あとは
テーションブレイク
です。これに対し局側はスポンサーとして
の広告料金を10秒分支払え、というのですがとんでもない話
です。そこで私はこれをジングルにしました。つまりこのスポットを聞けば、トリオという社名をより印象付けるように音楽を入れ、ナレーターも一新しました。演奏は“原信夫とシャープス&フラッツ”、“デューク・エイセス”、さらにナレーターにはあのジェットストリームの名声優、「城 達也」氏を起用したわけです。これが聴取者に評判を呼んでトリオの売上げも急速に右肩上がりで、私が入社したときは、第2部上場で資本金3億6千万だったのがすぐに4億8千万になって、1969年に第1部上場を果たしました。全時報スポットというのは、企業イメージづくりの主媒体で、音響メーカーでFMにコマーシャルを出稿したというのはトリオが初めてでした。

 1958年に東海大学がFM実験放送を始めて、1960年に実用化実験局としてコマーシャルが流せるようになって、いよいよFM民放開局への流れが出来てこれからというところで、1968年に突然当時の郵政省から、電波法違反(?)としてFM東海のCM放送が禁止となりました。その後行政との間で実験局免許から本免許をめぐり、延長、再延長さらに再々延長と、1970年5月までしばらく闘いが続きました。(詳細な経緯はネットでウィキペディアから「FM東海」を参照

 その間1969年12月にFM愛知が営業民放FM局として開局するわけですが、トリオの担当者の私は、FM東海でCM禁止の間、持っていた全時報スポット枠をFM愛知で放送できるように広告代理店を使い、国会議員への根回しなど大変苦労して走り回りました。最終的にはFM愛知でも全時報スポットの枠を取りました。この後1970年の大阪万博開催と重なりますが、
FM大阪が同年4月1日に開局し、同年4月25日にFM東海は廃局となり、業務が引き継がれた形でFM東京が正式に開局
(1970年4月26日)した訳です。さらに同年7月にFM福岡が開局して、ここまでで第1次代のFM民放局の黎明期が終わったということです。
(この頃には、トリオのFM時報スポットはFM民放4局全局での全時報スポットに成長)

 こうして私のいたトリオは業績を順調に拡大していきました。すると財界からいろいろバックアップしましょうと、トリオの急成長に伴い、財界の関与が始まりました。中小企業から大企業へと発展する時の宿命ですね。ここで創業時代からの春日さんという社長が、創業わずか25年で経営から退陣しなければならなくなった。そしてトリオはトリオらしさ(技術)が段々と失われていったという訳です。そのあと来た新任社長は、着任と同時に私がものすごく苦労して確保した全時報スポットの、その広告代理店を別の代理店(社長傘下の広告代理店)に変更しろ、といってきました。
 私は新社長のこの理不尽な要求を頑として拒み、これまで取引してきた広告代理店の功績を訴え、広告業界での信頼関係を反故にするわけにはいかないとして、最後まで抵抗しました。私の必死の抵抗で、FM全時報スポットは無事にそのまま従来の広告代理店で継続することになりました。しかし上役のそれもトップの言葉に背いた一介のサラリーマンが無事でいられるはずはありません。宮勤めとはママならぬことを身に染みて知りました。
 
 こうしたことがあって私は本社の宣伝部から営業最前線へ飛ばされることになりました。
  岡山のノートルダム清心女子大学の学長の渡辺和子さんの著書に、「置かれたところで咲きなさい」という本があります。興味のある方は是非読んで
いただきたいのですが、私もこの言葉通りに生きてみようと心に決めました。
 私は宣伝でセールスプロモーションを勉強しましたので、販売促進を徹底する、“マーケティングを主眼に置いた営業”ということをコンセプトにしました。元来営業というのは、買ってくれたらリベートをつける、お金を付けるということが主流ですが、これをしませんでした。それで、首都圏に1年、それから函館に転勤になって、地元で50年の老舗電器店の出店イベントを盛大に催すなどしました。それから岡山営業所に移り、またしばらくして通信機関西営業所に移り、ここでは自分が高校時代ラジオ少年だったころ馴染んだ大阪・日本橋の電気街に通っていた頃のことが役に立って、結構いい仕事をさせていただきました。それから九州に転勤になって、最終的に本社のデザインセンター勤務になるのですが、ここにいた時期に会社の「永年勤続休暇制度」を利用して、生まれ故郷の中国に行ってみることにしました。
 
 このころ、まだ中国は解放された観光地が少なく、生まれ故郷は解放されていないため、行くことができなかったので、近畿日本ツーリストの橋本泰三郎君のお世話で、ツアーで北京、西安、桂林、上海などを回ってきました。西安で真っ暗な広い砂漠の星空を見上げ、ふと終戦前に亡父が、「戦争に負けたら私をリュックサックで背負ってこの地まで逃げる」といっていた親父の言葉に思いを馳せ、小説
「大地の子」に自分を重ねてみて、もし中国から帰還するときに、両親とはぐれて中国の人に育てられていたとしたら、今日になって“オ父サン、オ母サン出テキテ下サイ。”と残留孤児になった人生だったかも知れない。こんなことを思いながら我を見直してみると、会社の中に“淀み”、“保身”、“堕落“、”慢心”、“傲慢”、というものがちらりと見えていたので、この旅行から帰って3か月後、新天地を求めて50歳でケンウッドを退社しました。
 
 そして“置かれたところでは咲きたくない、自分らしく咲きたい”ということで、新しい人生が始まりました。この時私が西安の華清池のほとりで詠んだ詩、というか感想です。

    「西安の、遥けき空を見上げれば、亡父の想い我を叱咤す」

 父が亡くなった時は私も小さかったので、ほとんど話したことが有りませんでしたが、父は中国語が堪能だったので、日本が戦争に負ければ、中国の奥地に逃げて一人でも力強く生きていく、という人生を選んだかもしれないのですが、せっかく終戦前に早く帰ってきて、広島で原爆で亡くなってしまった。享年38歳でした。そんな短すぎる父の人生を思い浮かべてみました。
 それから今日まで25年。思い起こしてみれば、けっこう波乱万丈の人生でした。
 58歳の時に独立して会社を始めました。監視カメラのシステムインテグレーターということで、「足と心を運ぶ、サポート
サービス」
というのがメインコンセプトです。
 
 私にとって「すべての始まりは放送研究部から」です。皆さんは学業も大変だと思いますが、放送研究部で軽くやるのも良いですし、サロン的にやるのも良いですが、われわれの頃は軍隊みたいなもので、「そこで鍛錬を積んで、なんとか強い人間になる」ということでした。これまでの人生で、想定外のアクシデントもいろいろありました。九州取材旅行などの経験で、極限状態でも、何とか生き延びられるという“自信”が培われたので乗り越えられました。人生は耐えることだけで生きていくのではなく、前向きな自分の気持ちを強くもって生きていただきたい。どんな時でも自分の信念、筋を貫くことが大切だと思います。
 私の好きな福沢諭吉の「学問のすすめ」のなかで次の言葉があります。

    
 『独立自尊』

       「独立の気力なき者は、必ず人に依頼す。
       人に依頼する者は、必ず人を恐る。
       人を恐るる者は、必ず人にへつらうものなり」
 
 私の小学校の時の先生が、卒業の時に書いてくれた言葉があります。
「君は何を選ぶか、「時」、「金」、「友」」 小学校の時にこの意味が分かる訳ないですよね。時間も欲しい、金も欲しい、友達も欲しい、当たり前だと思いますが、一番いえることは、やはり「
Time is Money」ということですね。時間が一番!!
 私の人生もすでに75歳ですが、終わりの方から見たら、時間の大切さというのは、減っていく貯金の残高のように感じています。時間は生きていく限り、誰にでも平等に与えてくれます。でも使い方ですね。無限ではありませんから。みなさんには時間を上手に使って下さいということを申し上げたい。
 そして、これは禅の言葉ですが『而今』(にこん)、今を一所懸命に生きるということ。皆さんも今本当に忙しいかも知れませんが、今この時間を本当に大事にしていただきたい。そして放送研究部の部活、大学の勉強、人生で何かつかみ取るということ、こうしたことを是非前向きに努めていただきたい。皆さんは年齢も若いですから、まだ切実感もないかもしれませんが、人生も年を重ねるとともに時間の大切さが切実に分かってきます。ぜひ時間の大切さを意識して、放研の活動、学校の学業を前向きに頑張っていただきたいと思います。
                            ご清聴ありがとうございました。