演題:「放送業界で30年。そこで見えたもの」
 東北放送ラジオ局部長   
 渡 邉 敏 之 氏
     
(1982年 経済学部経済学科卒業)

 講演講師紹介:坂代一郎氏(現OB会副会長)(1983年 経済学部政治学科卒業)

 今日,ご講演いただく渡邉さんの1期後輩になります坂代と申します。
渡邉さんは,本学の政治経済学部経済学科ご卒業です。当時,放研の顧問をしておられた小林一太
先生(経済学部)のゼミに入っておられました。渡邉さんは学校の成績が非常に優秀で,普通は150
単位ほどとって卒後されるところ,教職を取っていた関係で,200単位ほど取って卒業されました。
現役時代は放研の副委員長をやっておられました。
 東北放送に就職され,サテライト番組などを長い間やっておられました。仙台では渡邉さんのファン
クラブ(渡辺敏之ファンクラブ)があって,それが”ナベちゃん応援団”(ナベアナの会)というホームペー
ジを持っているということです。また,”ナベ・とものチアーズランド”と言う番組があって,これは関東で
も聞くことができました。ある日,私がラジオをつけたところ,突然渡邉さんの声が聞こえてきたので驚
きました。昨年の震災では,渡邉さんも相当苦労されていて,直後一週間ほどは連絡が取れないとい
うこともありました。当時,東北放送に根本君という放研のOBがいましたが,二人とも連絡が取れない
というので心配していた所,一週間ほど経って渡邉さんから「みんな元気ですよ」というメールをいただ
き安心したということがありました。今日は渡邉さんのいろいろな体験談をお話しいただけるということ
で楽しみにしております。       よろしくお願い致します。

 今日土曜日は,朝の番組を担当していて,6:30から9:30までしゃべって,その後新幹線に飛び乗ってやって参りました。途中で眠るかもしれませんので,よろしくお願い致します。(笑い)
 大学の時は眠るのが得意でしたが,さすがに放送という仕事をやっていると遅刻は許されません。この年齢になるとなぜか3:55に目覚め4:00には起きてしまう自分が怖いと思うことがあります。
 東海大学の入学は1987(昭和53)年でした。1982(昭和57)年3月に無事卒業しました。

ちょうど私たちが学生の時,3号館の東隣に11号館が出来たところで,新しい校舎が出来たばかりでした。まだ,小田急の駅の名前も“大根”でしたから,ずいぶん隔世の感があります。
 就職試験も何とか無事に通って,仙台に来てあれから30年です。自分だけがいつまでも年をとらない気分でいますが,現役の学生たちを見ていると,自分の息子の世代ですから恐ろしいなと思ったりします。
 東海大学に入って,1号館の塔屋のスロープをぐるぐる回って,部室の扉を開けて,怖い先輩たちがいて,工学部電子の皆さんだったと思いますが,「君,マイクアンプを作れる?何,作れないの,だめだな〜!」と最初から強烈なジャブをくらったりして,いろいろ先輩たちに教わりながら楽しい4年間を過ごして参りました。
 その当時は工学系の方が多かったように記憶していて,私たちの代から文学部とか政経とか,文系の人が増えてきたように
感じます。大学を卒業したあとに,メーカーに就職する人が多かったように思いますが,私たちの代は放送局に3人入りました。
私は東北放送に入りましたが,同期の文学部出身の人が青森テレビに入り,また,秋田テレビにも入った女子がいて,2人が
今も現役で残っています。
 あの頃の放研は大学祭が中心で,ほかの大学との交流があまりなかったので,他の大学との交流をしようじゃないかという
ことで,交流の輪を広げていった時代です。「何となく放送に興味があって,”将来放送局に入って仕事ができたらな”という淡
い夢を抱きつつクラブの門をたたいたような気がします。」
 自分の大学3年の時は,今のように3年から就職の準備が始まるような時代ではなかったので,大学4年の9月に会社訪問
が解禁となって,10月に入社試験というような決まりがありましたが,今と同じように青田買いというのがあって,夏休みの頃
には就職が決まっていたなどという同級生も随分いました。私は政治経済学部経済学科にいまして,放送研究部の顧問の
小林一太先生のゼミに入りまして,社会政策を教えていただきました。そのゼミに2年間お世話になりましたが,当時先生は
まだ若い方で,早稲田を出られて当時の第一勧銀に入られ,3年間でまた早稲田の大学院に戻って,「僕は全く社会人に向
いていないんだ」などと酒を飲みながらいろいろ話を聞かされたのを思い出します。
私が放送局に入りたいといったら「うちで,そんなところ目指すゼミ生は初めてだ」というので,「おまえのためなら,推薦状を
何枚でも書いてやるから頑張れ!!」との励ましていただき,何とか今日にいたっています。
 今,アナウンサーを目指している人で,北から南まで渡り鳥のように全国の放送局を受験して回っている人が多くいます。
私も実は4社受けて,NTVと九州の局と,東北の局を2社受けて何とか東北放送に拾われました。
 当時はまだ,新幹線が開業する直前だったので,上野から特急ひばりに乗って,3時間半です。遠いですね。
今日は一番速い新幹線に乗ってくれば1時間20分で仙台から東京に着く時代になりました。当時東北放送の東京支社は,銀
座の歌舞伎座の近くにあって,そこにラジオの東京スタジオがありました。そこで1次試験を受けて,それを通ると本社に来い
というので,4次まで通った気がします。帰りの車内で,他の大学の受験生と「受かろうが落ちようが,またみんなで会おうな」と
話をして,笹かまぼこを食べながら,缶ビールで乾杯して帰った思い出があります。
 入社して新幹線が6月に開業しましたが,それまで特急ひばりが走っていたし,東京/仙台の飛行機も飛んでいました。
1日6便飛んでいる,そんな時代でした。
 大学を卒業して,また親しい後輩がいたので,建学祭などに何度か足を運びましたが,徐々に仕事が忙しくなるにつれ,つい
足が遠のいていってしまいました。

 アナウンサーとして入社すると,一番最初に先輩について先輩方が作ったアナウンス教本で,
「正しい発音をするように」ということで,簡単文章から難しい文章まで,まずそれを読まされます。
それに慣れてくると,普段使っているニュース原稿とか,天気予報とか,コマーシャルの原稿とか,
先輩についてほぼ1日スタジオに缶詰状態です。途中で休憩がありますが,昼食の後はまた発声
練習から始まって,また読みの練習,フリートークの練習があって,ほぼ3ヶ月の特訓を受けてよ
うやくデビューすることになります。
 今はワイド番組全盛の時代ですから,ステーションブレイクなどというのはありませんが,昔は録
音番組が箱のように積まれていて,番組と番組の間にコマーシャルを流すわけですが,だからと
いって全部コマーシャル売れるわけではありませんので,2・30秒くらい空くことがあるので,その
時間を埋めるのが新人の役目でして,そばに怖い先輩がいて,広さ6畳ほどの狭いスタジオに入
って,決まった秒数間に気の利いたことを喋るのが最初の仕事です。それが慣れてくるとようやく
2分間の天気予報を担当することになりまして,提供枠を読んで(スポンサー様からお金をいただ
いていますからね)そこのスタジオはいつも決まっていて(第5スタジオというのですが)そこは何か
あったときに,いつでも緊急放送が割り込めるように緊急ボタンがついていて,「平時にこのボタン
だけは押すなよ!! 押すと流れている全ての放送がフェードアウトして,あとは全部おまえに任せっ
きりになるからな」と言われて,指導を受けながらそのスタジオで天気予報を読んだことを思い出し
ます。そしてニュースを読んでようやく一人前,7月頃からニュースと天気予報を任され,あとは簡単な例えば「ナイターの提供
枠」とか,「クレジット」を読ませてもらえるようになって,秋になるとようやく15分ほどの録音番組を担当させてもらえるようにな
ります。テレビでもそうですが,ローカル制作枠の中で2,3分程度ですが,取材に行ってディレクターの指示通りにしゃべって,
そしてスタジオでその時の報告をする,などという仕事が任されるようになって,1年経ってようやく一人前と言うのでしょうか,
まだ駆け出しですが初心者マークがとれるというところからスタートしました。

 先ほど坂代さんから話がありましたが,当時仙台駅前にサテライトスタジオがあって,お昼の0時15分から1時までの45分
間,売れているタレントから,売れていないタレントまでいろいろなゲストが来て,インタビューをしたり歌を唄ってもらったり,
余った時間にディレクターが予め用意した曲の中から会場の皆様からリクエストをとってインタビューをするという番組を6年半
担当して,20代はほぼその番組をやってきました。その後,土曜日午後のワイドに移って,ラジオカーに乗って県内各地から
中継を行い,楽しいお話から哀しいお話まで,地元の皆様と一緒に番組を作っていくという仕事を,3年半やりました。
先輩方にはいろいろ教わっていきます。話す仕事ですから人様の前でお話しするのは当然のことながら,実はアナウンサー
の仕事は話すだけではなく聞くのも大事な仕事なんです。「話し上手は聞き上手」といいますが,いかにその人の本音を引き
出すかというのがわれわれの仕事のもう一つ大事な仕事であって,それで地方を回ります。
よく仙台に来られた人が「仙台って訛ってないよね」といわれますが,それは作っているだけです。
特にお爺ちゃん,お婆ちゃんといわれる年代の人は,仙台弁が出てくるし,地方に行けば行くほど
段々と訛りが強くなってくるのですから,質問して答えが返って来たときに,最初何をいっているか分
かりません。1回くらいは“はッ?”とか,“もう一度お願いします”といえても,2度,3度になると相手
が突然いやな顔をします。ですから,まず方言を覚えることから始まります。
 仙台弁というのは皆さんズーズー弁と一括りにしている方のいるかも知れませんが,南は福島か
ら,北は青森まで,地域によっていろいろなカラーがあります。例えば福島では「そうだろう?」という
同意を求める言葉は「んだべよ」ということになるし,山形の内陸では「んだずー」,沿岸部では
「んだのー」という,何か北前船が盛んだった頃の名残りだそうですが,「京の雅な文化の香り」が少
し残っています。秋田にいくと「んだ」といいますし,仙台では「んだっちゃ」というようにいろいろな
カラーが出てきます。仙台弁は福島に近いです。口の動きも大きいですし,アクセントも平板に近く
て,東北の中では比較的聞きやすい言葉だと思います。朝会った時,「おはようございます」を仙台
弁では「おはようござりす」,ちょっと偉い人が来たとき,例えば知事が来た時には「おはようござりす
で,ござりす」と重箱になるのですね。天皇陛下が来られた時は3段重ねになります。
まあこれが朝のご挨拶です。夕方は「お晩です」です。偉い人には「お晩でござりすでござりす」となり
ます。東北は古くからの言葉,雅な言葉が残っていることが多く,古語が残っています。例えばお店
に入る時,普通は「こんにちは」とか「くださいな」などといいますが,仙台に田舎では「もうすーっ」と
いう,もの申すの「もうすーっ」です。これは古語で江戸時代の武士が使っていた「もの申す」が
「もの」が取れて「申す」が残ったということです。この言葉は,自分が仙台に居なければ知りませんでした。
地方に行くと,3世代世帯は当たり前,4世代で暮らしている世帯があります。3,4歳の子供が居るとすると,そのお父さん,
お母さんは20〜30代,お爺さん,お婆さんは50〜60代,その上の曾お爺さん,曾お婆さんが居れば80〜9090代という方
がいます。田舎に行くと宮城は米所ですから「ささにしき」,「ひとめぼれ」が栽培されていて,大きな農家では4,5町歩という
のが当たり前で,その農業の担い手は祖父,祖母です。若夫婦は近くの工場に勤めて現金収入を得ます。孫はどうしている
かというと,まだ幼稚園,保育園に入る前は曾祖父,曾祖母と一緒に過ごします。そうするとバリバリに訛った言葉が孫に伝え
られます。

 平成の大合併で出来た登米市(宮城県北部=旧登米郡8町,旧本吉郡津山町が合併)というところがあって,気仙沼の少し
西側,内陸に向かって広い土地ですが,人口は10万人程度。そういうところにお爺ちゃん,お婆ちゃんと一緒に暮らしている
孫たちがいる。東京から嫁をもらった若夫婦がいると,父,母から言葉を学ぶよりお婆ちゃん,お爺ちゃんと一緒に居る時間
が長いので,これもバリバリに訛って居るわけです。たまに東京から来た嫁さんの実家行ったりすると,話す言葉が通じない
なんてこともあるようです。話す言葉が通じないと物事が始まらない。まさにわれわれもそこから始まりました。
80,90歳の曾祖父,曾祖母が病院に行って,医者と会話していても通じないことがあるので,そこは孫を連れて行って通訳
してあげるなどということもあるようです。昔に比べれば訛って居る子供も少なくなりましたし,今,テレビ,ラジオで標準語を話
すことが当たり前に増えてきたので,「訛りがないな」といわれると,どこかふるさとの懐かしい言葉を知っている人にとって,
少し寂しい感じがします。関西弁などは当たり前にテレビ,ラジオで喋られる時代ですが,その土地にはその土地なりの暖か
い言葉があると思います。そういう言葉をずっと繋げていきたいと思います。
 わが社のPRになりますが,いま「仙台弁かるた」というのを鋭意作成中です。「ア」から始まり,「ヲ」で終わる,方言で書いた
「かるた」で,取り札に漫画なども書いてあって,わかりやすくなっています。だからといって,東京の人が仙台弁でかるたを読
むといっても,急に読み手だって困るので,ネイティブスピーカーによるCDをつけて,発音を学んでいただいて,楽しんでいた
だこうということです。まもなく発売になりますので,amazon などで是非お求めいただければと思います。

 仙台弁はいろいろ言葉があります。折角ですから,皆様に荷物にならないお土産を一つお持ち帰りいただきたいと思います。
仙台弁ですが「いずい」という言葉です。急にいわれても分かりませんね。《会場から「自分の実家が小牛田で,父親の実家が
登米なんです」》 そうですかー。最近はB級グルメで「油麩丼」なんかで大変ですよ。地元の皆さんは? 
《そうですね,地元で「油麩丼」なんか大したことないのにな,と思います。》 でも地元は町おこしのために頑張っていますよ。
宮城の明治村といって,明治時代初期の建物が残っていて,良い所
なんですよ。そこのうなぎがまた美味しいのです。北上川を上ってき
た天然ウナギですからね。
それでは宮城の方を除いて,さて「いずい」です。
皆様お分かりになりませんので,たとえば「歩いている時に,靴の中
に小石が入ってすぐに取り出せない」これが「いずい」です。
「ネクタイを締めたとき,前の方が短く,後ろが長くなってしまった」
これも「いずい」です。「隣に会社の嫌な上司がいて,同席しなければ
ならない」これも「いずい」です。
なんといったら良いのか,標準語では居心地が悪いとか,しっくり来な
いとか,英語では”uncomfortable”というのでしょうか。
そういう感じが「いずい」です。これが明治時代に宮城から北海道に
開拓者として行った人たちが沢山いました。札幌市に白石区という
ところがあります。また伊達市というところがあります。ですから北海
道の人には分かる人が多いです。
山形にも多いですね。
今,当社のアナウンス部長がこの「いずい」を全国に広める会の会長をしておりまして,是非「いずい」を覚えて,宮城に行った
ら「いずいっちゃ」と一言いっていただくと,「なんだか居心地が悪い」という意思表示になるわけです。
これ以外にもいろいろな言葉があります。「おしょすい」という言葉がありますが,「お小水」ではありませんよ。“恥ずかしい”と
いう意味です。漢字では「お笑止」と書きます。これも古語ですが「おんしょうし」が訛って「おしょすい」に変化したものです。
“今日は疲れたあ〜”というときは「がおる」といいます。漢字では「臥折る」と書きます。疲れると前屈みになる,臥を折ることで
「がおる」です。こうした言葉が残っているのが方言だし,これを共通語でどなたにも分かるように伝えるのが私たちの仕事の
一つですし,こうしたふるさとの文化をずっと伝えて行きたいと思います。

  坂代さんから失敗談とか話せといいわれましたが,毎日失敗ばかりですので,何を話したら良いかわかりませんが,津波
でさらわれた南三陸町(旧歌津町と旧志津川町が合併)にラジオ公開番組でお邪魔した時,自分を含め独身スタッフ6名で行
って,公開録音が終わって,「ご飯を食べていって」といわれ,有難いことに早めのご飯をご馳走になって,「では仙台に帰ろう」
と別れる時に,「お土産に持ってかえって」と渡されたのが,腹子がたっぷり入ったサケが1ダース,ホタテ60個,衣装ケース
ほどの箱に,蓋が閉まらないほど山盛りの殻付き牡蠣が入って「持って帰って」といわれ,われわれは申し訳ないので「みんな
独身ですし困りますから」といったのですが,田舎の皆さんはとにかく「腹一杯食べてもらって,とにかく大きな物を沢山お土産
でプレゼントすることが,一番のおもてなし」と思われているので,有難くいただいて帰って来ました。一人だけ自宅から通って
いるスタッフがいたので,そこの家に行ってもらえるだけもらってもらい,全部なくなるわけではないので,その晩は10時過ぎ
まで,夜の国分町という飲み屋街の知り合いのお店に泣く泣く配り歩きました。大体夜の街に放送局のツートンカラーの車で
乗り付けて,「サケをもらって下さい」などということはありませんからね。残ったのは最後2匹,私の実家に送って,お腹を裂い
て腹子を出し,湯につけて筋子をポロポロ取りだし,醤油付けにして食べたそうです。お袋から「あなたはいつもこんなに美味し
いものを食べているのか?」といわれましたが,私も本当に海鮮類の美味しさを味わったのも宮城に来てからです。
 
 大震災から今月で1年半になりますが,震災当日は金曜日で,翌日の番組の準備をしていて,突然下から突き上げるような
衝撃が2度あり,それから建物全体が大きく横揺れ,非常に大きな揺れを感じて,情報センターに走っていって,情報センター
も本社社屋群の中では比較的新しい建物なので,建物自体に大きな被害は出ませんでした。われわれは入社した当時から
「いずれ大地震が来るぞ」といわれ,会社もそれなりに対策していましたが,まさかこんなに大きな地震が来るとは思っていま
せんでした。会社のルールで,「震度5以上は全員出社」と決まっているので,出社できなくても連絡をしなければなりません。
私はその時会社にいましたので,入社が決まって研修中の新米アナウンサーと一緒に県庁の災害対策本部に向かいました。
われわれは地方局ですから,現場に行けば取材もし,原稿書きもし,人出が足りなければラジオの中継の電波も出します。
それが一通り出来て一人前のアナウンサーになります。自分も若い頃から先輩に怒られながらいろいろなことをやって来たの
が本当に役に立ったと思います。
 大きな揺れと同時に,ほとんどの所の電源が落ちました。仙台市内沿岸部を含め,電気,ガス
なども止まってしまいました。放送局は非常用発電機があるので,切り替えて放送を続けました
が,以前の宮城沖地震を経験しているので,放送局に設置されている発電機は最長5日間,
給油もしなければこれしか持ちません。油が不足しているというので,東京からTBSがタンク
ローリーで油を持ってきてくれました。お隣の峠を越えてテレビユー山形からは,やはり燃料,
食料の補給を受けました。
一番困ったのが実はヘリコプターだったのです。地震直後の映像を皆さんご覧になったと思い
ますが,実は当社のヘリは仙台空港の格納庫に入っていて,地震直後にヘリを飛ばせと指示
したのですが,格納庫の中で隣のヘリとローターが接触して,「安全確認が出来るまで飛ばせ
ない」ということで,確認中に仙台空港が津波にやられてしまい,県の防災ヘリも2機あれで駄
目になってしまいました。当時生き残ったのは,県警の2機と仙台消防局のヘリ1機,あとは自
衛隊のヘリだけで,東京からTBSと,新潟の新潟放送の応援を頼んで東北地方各地の空中撮
影をお願いしました。私は2日間県の対策本部にいて,その間徹夜で放送を続けました。
ラジオは256時間のべ11日間CMを全部飛ばして災害報道を続けました。一番最初は,今ど
こがどうなっているという詳しい情報がない中,模索しながらの放送でした。地震の規模や大津
波警報が発令されたとか,当然ながらそれを放送しながら今,沿岸部がどうなっているのかと
いう時に,電源が落ちた瞬間に非常用の行政無線が全部使えなくなったということもありました。

それから数時間後にやってきた津波で庁舎全体に洗われてしまって,無線機はおろか,人々も一瞬にしていなくなってしまい
ました。その中で最初はみんな必死ですから,とにかく新しい情報を伝えていこうということでしたが,そのうち情報を整理して
いこうということで,「電気,ガス,水道はどうなっているのか」,「通れる道路はどこなのか」,それから安否情報をしたのも暫く
経ってからです。個人的情報と市民生活に大事な一般情報を同時にしてしまうと混乱するので,それを分けて放送しようという
ことになり,さらに県北部,県中央部,県南部と分けて放送するようにしました。ただ宮城県沖地震の時と全く違ったのは,今は
メールとか”twitter”の役割が大きくなって来ました。放送と同時に”twitter”でつぶやくようにして,今入っている情報を”twitter”
にもホームページにも流しました。でも電気がなかったから,見られた方々はほんの一部だったかもしれません。ですから発電
機のある公共施設とか,病院とか,ホテルなどで,持っていた携帯などを充電する人々が多くいましたし,放送を聞いて安全を
知った人もいました。  あれから,「あっという間に過ぎ去ってしまった」というのが感想です。

 自分は土曜日の番組を持っていますが,2週間ぐらい経ってから音楽を流し,普通の放送が出来るようになりました。
「さとう宗幸」さんにスタジオに来てもらい,生の歌を聴かせてほしいとお願いし,朝早くから来ていただき,「青葉城恋歌」を
歌ってもらいました。今もこの番組にメールだけでも120〜130通来ますが,この時は普段を大きく超える300通を超え,
オペレーターが裁ききれないほどのメール,FAX,電話が届きました。徐々に普段の生活に戻ってきていますが,われわれが
話す言葉,流れる音楽,どのように人の心に寄り添うことが出来るか,癒やされるのかを痛切に感じています。

 音の素材を一つだけ持ってきました。朝7時から放送している「歌のない歌謡曲」という番組ですが,私はこの番組のディレク
ターをやっていまして,アナウンス部長の藤沢智子と二人コンビで作っております。
 これは石巻市雄勝町というまさに三陸沿岸,海沿いの街です。漁業の街で,そこも全部津波で流されました。雄勝病院という
ところの先生も患者さんも全ていなくなりました。そこでもやっぱりふるさとが好きだということで,町をおこそうと頑張っている人たちがいます。13分ほどですがお聞き下さい。

○ 大地震に遭遇したときの模様の体験をインタビュー。すべてが流されたけど,立ち直ろうと思うきっかけになった話。
○ お寿司屋さんで,流された自分の店の跡を訪ねてみたら,そこで包丁と玉子焼きを作る時の焼き印を見つけた。
○ 去年11月仮設店舗でお店を再開した。そこで地元の味を出そうと頑張っている。震災後1年4ヶ月,全国から雄勝の味を
  求めて訪ねる人が増えてきている。いずれまた雄勝の町でぜひお店を開きたい。

  震災後必死に立ち上がろうと頑張っている人たちがいて,私たちもその様子に励まされます。その後1年半経って,今いろ
いろな被災地の仮設住宅などを回って,そういう方々の声を丹念に拾い上げていかなければならない,というのがわれわれの
仕事だと思っています。これからも長いスパンで5年,10年と続けて行きたいと思っています。
 もうそろそろ終わりの時間ですが,こんな言葉をご紹介したいと思います。

 津波で流された東松島の方です。
 「もう駄目だと何度も諦めかけた。だけど家族のためにも,絶対に死ねないと思って必死に頑張った。」一晩ずっと家の窓に
しがみついて,助け出された男性の方です。
「暗すぎて,今までに見たことが無いぐらい星がきれいだったよ。仙台のみんな,上を向くんだ。」と”twitter”に投稿された方で
す。それから「ラジオでいろいろメッセージを聞いて,有難くて涙が出そうです。避難所には続々と物資が届いています。
皆様に本当に有難うといいたいです。私たちも頑張らなければと思います。」
それから「昨日駅員さんに“一所懸命電車を走らせてくれて有難う”といっている小さな子供たちを見ました。駅員さんは泣いて
いました。自分も号泣してしまいました。」そんな言葉がずっと届いています。

 これから放送を目指す方もおられるでしょうし,何時どんな事が起こるか分かりませんが,どうか逃げないで現実と向き合って
いただきたいと思います。われわれよりもはるかに先輩の皆様,言葉の有り難さ,想いを伝えながら。
 私は,残す現役生活も2桁を切ったので,陸上競技で言えば第4コーナーを回って最後のストレートにかかってきたので,せめ
て体力だけでも負けないように頑張りたいと思います。
  自分が入社したとき,当時のアナウンス部長にいわれたことを胸に刻んでいますが,「言葉という物は変わって行くものだ。
確かに平安,江戸,明治と,比べてみると今の言葉は随分変わってきている。でも,われわれアナウンサーは時代の最後尾
について行こうではないか世の中の皆さんが,“今はこんな古くさい言葉は使いませんよ”という人が8割になったときに,その
表現を取り入れたらいいではないか。日本語の美しい言葉を後世に伝える努力をして行こう」といわれました。今,新しく入って
くるアナウンサー,制作を担当するディレクターにも,日本語の美しい言葉,その響きを大事にしてほしいと思います。
世知辛いニュースが沢山飛び交う世の中になりましたが,せめて心の中だけは温かく,そして元気いっぱいに過ごしていきたい
と思います。
 最後にもう一つ,仙台に来られましたら,ぜひ東北放送までお運び下さい。飯の一杯ぐらいはご馳走しようと思います。それか
ら,津波であらわれた三陸沖ですが,今年は実はホタテがものすごく良いそうです。実際に南三陸でいただいて来ましたが,津
波でプランクトンが沢山増えていて,例年の倍以上の早さで成長していて,こんなに大きいのです,貝柱の厚さが2cmあるので
す。これから秋になると牡蠣が出てきます。放射能の心配な方もいらっしゃるでしょうが,全部検査に通った物が出荷されてい
ますので,是非被災地に足を運ぶのも支援の一つと思って,是非お越し下さい。
 今日はご静聴どうも有難うございました。
 
 《質疑応答》

 《Q》 放研2年の村岡貴文です。すばらしいお話を有難うございました。
    学生の頃からアナウンサーを志したということですが,実際に入ってみて,学生の時に思い描いていたアナウンサーの
    姿と,今とで違うことがあったら教えて下さい。

 《A》 皆様が放送で見聞きされるまでには,自分も,周りのスタッフも準備して臨まなければなりません。地震のように突発的
    な場合は,自分の言葉で,ありとあらゆるヴォキャブラリーを駆使してレポートを仕上げるというのが仕事です。
    入る前よりこの仕事が一層好きになりました。この仕事を選んで良かったと思いますし,自分で才能があったなどとは思
    いませんが,志した道を進んで良かったというのが今の感想です。
      当時大学3年の時にアナウンスアカデミーに一緒に通った放研の仲間で,残念ながらアナウンサーになれなかった人
    は一般の企業に就職していきましたが,彼は彼で一所懸命自分の人生を歩んでいます。
    長時間有難うございました。

以上,渡邉氏の講演は会場一杯の拍手のもとに幕を閉じ,参加した会員はほとんど全員が懇親会会場へと足を運んだ。