Essay

なぜ?文連長屋にいないのか?
1967年度卒業 工・通信  佐藤 一  
 先日,合同役員会の後の懇親会で副会長の坂代君から表題の質問に関する話があり,是非書いてほしい
との要望がありました。
さて,何からどう書いていいのやら・・・迷っていても解決できないと思い,書き始めます。

 「文連長屋」とは当時の学生の間では,文化部連合会の部室の建物を指してそう呼んでいました。

 私は湘南校舎の2期生になります。その当時は校舎も1号館と食堂(今の8号館で,当時は
階平屋建て)
だけで,南門側に実験棟(主に理学部が使っていたように記憶しています。今の
5・6号館)があり,南門のそ
ばには望星塾がありました。
 昼休みになると
1号館屋上で放研のアナウンス課の発声練習(ほぼ毎日のように練習していました),応援
 団,柔道部,空手部,少林寺拳法部など多くの団体が練習していました。
今,思うと「それはそれでとてもいいな」とさえ思います。一方,文化部の他の団体や望星会の一部の団体は
主に教室を使って活動をすることが主でした。

 放送研究部は当時,代々木校舎が本部で湘南校舎が支部となっていました。
われわれが代々木校舎に行くと極々狭い部屋でしたが「アナウンスルーム」と「ミキサールーム」がブロックで
仕切ってあり,番組制作はここを中心に行われていました。
しかし,番組発表会などで使う作品は「FM東海」(今の「FM東京」)のスタジオをお借りして制作していました。
FM東海のミキサーの前に座り,アッテネーターを両手に握ったとき,緊張して「ジュワー!」と汗がにじみ,手
は小さく震えていた感覚は今でも忘れません。

こんな経験をしながら,われわれは「自分たちも代々木のような部屋があるといいな・・・」と皆,思っていたと思
います。
 また,学校の事務連絡なども「われわれが変わってやったら,事務の方の手も省ける」ように思うし・・・。
「昼休みには閑散とした校舎内に音楽などを流し,授業で疲れた心を少しでも和らげることができたら・・・」など
など,みんな思うことは同じだったように思います。

私が
1年生の春休みは「東北一周取材旅行」の準備で(旅行は3月
5日午前10:30~4月10日午後13:00までの予定)
12月から2月まで
の約3ヶ月間は湘南と代々木の両校舎を往復して準備をしました。
(取材旅行の話はここで終わります。)
なぜこの話を出したかというと,私が時期を思い出そうとしているの
です。ですから,私が
2年生の春休みだったと思うのですが,「どうや
1号館の屋上の上に部屋があり,そこを使わせてもらえるようにな
った(あるいは「使わせてもらえそう?」だったかも・・・)との情報が入
りました。
詳細は当時の委員長,副委員長が中心となり話をしてもらったようで
すが,部員にとっては「チャンス到来」です。早くも誰かが図面でスタ
ジオのレイアウトを書いていたようにも思います。また,当時4年生の
先輩O氏にお願いしてブロックの積み方やコンクリートと砂の混合の
割合などを聞いたりと,話はどんどん進んでいきました。
この春休みの間にリヤカーに砂をいっぱい積んで,ブロックをいっぱ
い積んで,
1年生・2年生が交互にリヤカーを押して塔屋3階と1
を何度,往復したでしょう。
 上では(塔屋3階)コンクリーを練り,鉄筋を入れブロックを積み・・・,
下では砂とブロックをリヤカーに乗せ・・・ それはそれは大変な作業でした。
ブロックを積み始めてしばらくして,誰かが「ブロックの穴にタイムカプセルを入れよう」と言い出して,フィルム
ケースや小さな缶,箱のようなものにそれぞれの想いを入れて,ブロックを積みました。
そのタイムカプセルは丁度,
30周年記念式典の折に現役の学生諸君から見せられて,本当になつかしく当時
を忍ぶことができました。(うれしかったですね)
当時,委員長の故今城貢氏は本当にうれしそうにタイムカプセルをいつまでも握りしめていました。

スタジオとアナウンスルームと称する部分にブロックを積んでいるときに,「このままだと換気ができない」と誰
かが気づき,丁度入り口のドアと対面する付近の奥の壁に換気口を開けたのです。これが結構かたくて大変
でした。
 お蔭様で
19664月からは晴れて塔屋3階に放送研究部のスタジオがオープンしたわけです。
でも,最初の数か月は何となく湿気があり,ジメジメとしていましたが,部室とスタジオのできた喜びが大きくて
あまり気にもなりませんでしたが,極力誰かが行って,部屋を開けるようにしたものでした。
この時,順番や担当を決めたわけでもなかったのに,自然とみんなが同じ思いで部室に換気の目的で集まっ
てきたように思います。ようやくみんなの想いが実現された喜びだったと思い出しているところです。
部屋は
3つに区切られ,調整室(?),スタジオ,アナウンスブースがありました。放送研究部は他のクラブと
違って,番組制作・定時放送・効果音作成など活動内容が多岐に及ぶこともありスタジオが完成したことは部
員全員の大きな喜びでもありました。(当時は
TBC効果団があり,番組で使う効果音は一手に引き受けてくれ
ました。

 表題の「文化部連合会部室」は文化部連合会発行の新聞「脈動-第10号-」によると「
1967年10月10日に落
成式が行われ,幅
7メートル,長さ55メートルのモダンな2階建の部室が完成」と紹介されています。
ですから,放送研究部が塔屋
3階の部屋に
移ってから約
1年半後に文連の部室ができ
たことになります。
この時,文連からも放研にお話がありました
が,部屋の問題,機材を置くスペースの問題
やケーブルの問題等々で結局無理だと分か
り,合意の上で辞退した次第です。
 当時,放研は毎日定時放送を流していまし
た。また,
1250分から10分間は教務課
・学生課からの放送を流していた関係で,仮
に文連の部室に移動した場合に部室から
1号館にケーブルを敷設する必要もあり,さ
らには教務課・学生課へも連絡手段を考えるなど大変大がかりなことになってしまいます。
しかし,「脈動」ではこれがきっかけとなって,「サークル活動の中心が湘南校舎に移った」と報じています。

ここまで書いて,ちょっと思い出したことがあります。それは,
1966年の夏前後だったと思いますが,学校の
担当の方が塔屋
3階の部屋を見に来て大変びくりしていました。(いろいろとお叱りも受けました)
  今思うとあの時,きっと「放送研究部も”文連の部室に移るよう”に説得にいらしたのではなかったか?」と
想像しています。しかし,すでに塔屋3階の部屋はスタジオとして変身していたため「どうにもならない」と思わ
れたのではないでしょうか?
こんな経緯から塔屋
3階は放送研究部の部室として位置づきました。

 この部室の存在が揺らいだのは学園紛争の起こった
1969(昭和44)年頃でした。
学校は放送研究部の部室を取り上げる計画があったようです。しかし,当時,学校には放送研究部の卒業生
(私を含めて)が教職員として
5名が勤務していた関係で,少なくてもこのOBには意見を聞くという学校の配慮
もあったようです。
結果的には「塔屋
3階の部室に上る手前に扉を付けて施錠する」という形で落ち着きました。
いつの日かその扉も取り外され,これまで通りに利用できるようになったようです。

その後,約
15年位は当時のままの状態で使用していたと思います。創部30周年の折にタイムカプセルが披
露されましたので,その数年前にはブロックも取り壊されたと思います。
当時のことを知っている方々,あるいはその時代にいた方々からその辺のお話が聞けたらと思いながらはる
か昔に思いを馳せています。

そんなあれこれを,それぞれの年代が集まって話のできる場(総会や懇親会)に来ませんか?
みなさん!待ってますよ。
                                                      
201405月吉日
 ここで使いました写真はすべて学園史資料センターの使用許諾を受けています。
 
また,文連部室のいい写真がなかなかなくて,スポーツクラブの練習や試合で写された写真の遠くに写っていたり,部室の全景
  ではなくて部員 の移動する姿や,各種団体の練習風景のようなものが中心に写っていましたので,提供された2枚の写真を合
  成して全体の感じを見ていただくことにしました(悪意ある切り張りではありません・・・)。