Essay

■ いなせな棟梁 村居慊弘さん
1965年度卒 広報学科    木村兼昭

 私の一期上に、戦国時代風に言えば織田上総介信長の“たわけ”にも匹敵するほどの村居先輩とい
う方がおられる。
 日本のエネルギー産業を縁の下で支える機械などの生産会社の重役さんとして、つい先日も、背広
をビシっと着込み、ふんぞり返っていた企業戦士が、まさか同一の方とは思いもよらない、学生時代の
姿であった。私の記憶にはいつも、鉢巻をした粋な大工さん、という風貌で登場する。

 確か金属工学を専攻されていたはず。にもかかわらず、私の
記憶の中の先輩は、木工学専攻。鋸、トンカチを持って大活躍、
と言いたいところだが、図面も無しで切りはじめてしまって…
「あれ? 上手と下手の高さが会わない…」などとつぶやき、座
り込んでいる(傍目にはサボっている)姿が描き出されるばかり
である。
 建学祭などの準備で徹夜になることもあったが、先輩は嬉々と
して動き回っていた。後輩である私はと言えば、怒鳴り散らされ
ながら目をシロクロさせ、おたおたと右往左往するばかりであっ
た。
 徹夜の作業も終え、さあ帰宅するか、あるいはスタジオの中で
仮り寝をするかと思い悩んでいると「さあ、でかけるぞ」とますま
す元気な先輩の声。
代々木にあった部室から歩いて十数分で渋谷の繁華街である。
ここでも目をシロクロさせている田舎者丸出しの初々しい後輩に「さあここが有名な○○だ」などとガイド
し、悦に入っていた。とくに深夜営業の映画館前では、そのコンテンツの構成の素晴らしさがああだこう
だと… ここは映画研究部か、と勘違いするほどの熱心さであった。
 さて久しぶりに再会した先輩の近況を伺ったところ、いまは家庭菜園に凝っているとのこと。かなり
広い畑を耕しいろいろな野菜の栽培に汗を流している、と話してくれた。
「やっぱり、はちまきですか?」「いや、今は麦わら帽だよ」とすっかりファッショナブルになったとご機嫌
であった。
でもやっぱり私には、いつまでもはちまきの方が似合っているように思う。
 そういえば東海大学には農学部もあったんだよね。