Essay                                               
頑張れ「放研」! がんばれ「TBC」
もいちど飛び出せ“青春”へ、、
1965年度文学部広報学科卒     木村 正義
(まえがき)

 「放研OB会」事務局の佐藤くん(一くん)から、ホームページの活性化のための原稿を要請され、先日(3月28日)の「合同役員会」のあとの懇親会で、佐藤誠先輩と放研時代の活動を、それぞれの時代を区切って投稿しましょうと約束してお別れしてもう2ヵ月余が経ちました。
そろそろ原稿を書かなければと、昔の放研の資料をめくっていたら、偶然、放研35周年記念パーティー
(1992年開催)の時の、挨拶の草稿が出てきました。それを読み返していたら少しずつ、四十数年前の懐かしいあの時代のことが思い出されてきました。
そこで思い出すまま気の向くまま書いてみたいと思います。ちなみに「放研35周年記念パーティー」は、私が卒業してから四半世紀も経っていました。

 もいちど飛び出せ“青春”ヘ

 もう43年前のことに思いを馳せながら、日ごろ愛飲の「いいちこ」のお湯割りを、いつものようにこだわって初めにお湯を、そしてゆっくりと25度のミニボトル(180ml)を注ぎながらつくり、ちょうどよい具合のお湯割になったところで、ぐぐっと飲んだ。 
 学生時代はまったくの下戸だった私は、いまだにあまり酒は強くない。ゆっくりと心地よい酔いが全身にまわり始めたころ、あの懐かしい部活の、当時の思い出の一コマ一コマが、ほんとに昨日のことのように浮かんでタイムスリップしていた。

{あの時代、あの堀江モンはもっともっと溌剌と輝いていた}

  入学したあの年は―太平洋ひとりぼっちーのあの年― 
 昭和37年(1962年)といえば、かの堀江健一青年が、ヨットで世界ではじめて単独太平洋横断をした年である。あの年の我が東海大学の入学式は、新宿厚生年金会館で挙行され、学園事業はじまって以来の、盛大なイベントでした。北は北海道から南は沖縄まで、全国各地から集まってきた2,000人もの新入生を前にして、松前重義学長の訓示はかなり熱の入ったものでした。それは例年にも増して、この年の新入生に期待する学長の熱い想いと、この年を機に、東海大学を”私大の雄”にするんだ、という気合と気迫が入っていたように感じました。数年前から準備してきた神奈川県平塚市の、敷地13万坪の湘南校舎の建設。この年新設した海洋学部の「東海大学丸」の新造、将来の医学部・大学病院の構想ナドナド。  
 その松前学長の力強い訓示と創造も出来ないほどの壮大なビジョンを目の当たりにしてまだ若いひとりのひとりの青年は、それぞれが不思議な感動と戦慄を覚えていた。これは、その入学式で感動したひとりの男の回想録でもある。
 
 {放送ひとすじだった男のモノローグ}
 
 私はこの東海大学の文学部広報学科の2期生として入学した。この大学を選んだ理由は、また別の機会に書ければと思っている。ただ、合格通知を手にした時から、私はこの大学の“放送部”に入部すると決めていた。
それは中学生時代の3年+高校時代の3年と合計6年間を、かなり懸命に時には「一所懸命」に部活にはまり、部活の“放送部”ではなくて、(放送)という「得体の知れないモノ」に興味と関心を膨らませていたからでもある。 入学式を終えた私は、身長170cm、体重70kgの少々「メタボ」な体形で、はじめて新入生として、代々木校舎の門をくぐった。私を待っていた学部のオリエンテーション。そして体連、文連、望星会といくつものクラブの勧誘、勧誘。
 当然体格の大きい順に、新入生は体連のクラブから目を付けられる。70kg超の私もしつこくしつこく2号館から4号館まで柔道部の勧誘で追いかけられ、その強引さに恐ろしさを感じるほどであったことを思い出す。
 しかし、合格通知を手にした時から、“放送”一本に的を絞っていた私は、強引な勧誘を一蹴して「もう文連の“放研”に入った」と言い切っていた。私は「東海大放研」の勧誘を受ける前に、すでに自分で勝手に入部を決めていた。いま思えば、クラブの了解も無いままの新入生の分際で、私は傲慢にも押しかけ部員のように、クラブを選んでいたのかも知れない。

 {小さくてもキラキラ輝く星を感じた代々木キャンバス}

 私の高校は、大阪平野の生駒山を東に仰ぎ、南に金剛山、信貴山を見る風光明媚な自然環境豊かな田園都市にあった。周囲2.5km〜3.0kmの敷地に、公式野球場とサッカーの球技場まで併設されていた。
あの頃のサッカーの「全日本選抜チーム」が総合練習場に私の母校を選んだほどの、この広さ抜群の設備の中に、男女共学で全校生徒1500人が勉学していた。もちろん夜間高校も併設されて、働きながら勉強したいと望む学生も300人以上就学していた当時の公立高校である。体育の授業で、「今日は校外2周マラソン」と聞いただけで、「勘弁してンか、堪らんワっ、助けてんかっ、」とギブアップしたくなるほど周囲距離の長い広い敷地であった。
 その私が、小田急線の代々木八幡駅で下車して、だらだら坂を合格通知を握りしめながら登り、ようやく富ヶ谷の東海大学代々木校舎(現在の代々木キャンバス)を見たとき、ほんとにこれが大学なのと思ったのは不思議ではない。まるで探偵映画に出てくる、丘の上の研究所のようないでたちで、屋上にテレビ塔のようなアンテナがそびえ立つ、小さいコンクリートの塊である。雄大な高校の敷地と比べて、あまりにもイメージとかけ離れていたからである。その上当時の東海大学の文学部の入学金は、私立の文科系にしては、かなりの金額。
代々木校舎の周りをゆっくりとひと廻りしながら不安と、疑念にとらわれたのは私ひとりではなかろう。それでもこれほどまでユニークさを感じる私大はほかには無い。自分が選んだ大学なんだと、自問自答しながら、いつの間にか会計課の窓口の前に立っていた。
 そのときの私は、まだこの東海大学が、これほどまでの私大の雄に成長するとは、到底想像しきれなかったからである。人も企業も学園も、無限の可能性があることを今、またこの原稿を書きながら感じている。
 
 「私の年齢と、この東海大学は同い年?、、」
 
 この東海大学は、1942年に静岡県清水市で発足し、航空科学専門学校として産声を上げてからまだ19年しか経っていなかった。奇しくも、もうすぐ成人式を迎える私の年齢と同じであったとは、そのときの私はまったく気づいていなかった。そんなこんなで、私が昭和37年に入部したとき、この東海大学放送研究部はまだ7歳になったばかりでした。今でこそ、東海大の名は後輩の柔道の山下康裕(国民栄誉賞)や、今年のWBAの名采配を振るった、これも後輩の原辰則(現巨人軍監督)の活躍で知る人ぞ知る存在になったが、あのころは大学もクラブもまだ無名の、たどたどしい幼いヨチヨチ歩きの頃でした。
 昭和37年(1962年)当時は、まだ戦後○○年と呼ばれる時代でもあり、南北38度線をめぐっての、朝鮮戦争の勃発からはじまった特需景気に湧き起こっていた。復興に向かって急速に繁栄への道程を、日本が踏み出した時代でした。
この年、テレビジョンの受信契約数が1,000万台を突破。そして今の時代の、「視聴率」というゾンビにまでなってニワカ放送人(お笑い芸人がノサバッテイル)の、もともと低俗なそのモラルまでを左右する、調査会社「ビデオリサーチ」が創立された年でもある。
 
 2009年、今の時代の首都東京では、石原東京都知事が2016年の「東京オリンピック」開催に意欲を燃やし、世界を相手に華麗な誘致合戦をしている。そのポジティブな現実の裏には、百年に一度という切実な世界同時不況を何とかして乗り切るためにどうしても開催しなければと必死になった、あの頃の時代背景に似ているような気がする。あの時代は誰もがポジティブだった。ただひたすら、一目散に目の前の希望に向かって走り出していた。
脇見をしたり目移りするような余計なものを見る余裕など、誰にもなかった時代であった。
 
 「一所懸命に生きたあの時代―騒音に復興への息吹を感じたあの時、あの瞬間」
 
 戦後復興の象徴ともいえる、東京オリンピック(1964年)の開催を目指して代々木の国立競技場の建設は急ピッチで進められ、首都東京は建設ラッシュで沸いていた。
 新宿駅の西口も東口も、ところかまわず掘り起こされてブルドーザーとクレーン車がうなり、杭打ち機のピストンの爆発音に驚き、その凄まじい騒音と活気に新しい時代の到来と息吹を感じたものである。街中では、吉永小百合主演の日活映画「キューポラのある街」が、入学式の当日に封切られて”さゆりスト“ブームの誕生が始まった年でもある。
 それぞれが物に飢え、金に困り、なにか満たされない思いを胸に秘め、精神的にも物質的にもハングリーな若者がひしめき合う大都会で、いま俺にあるものは「やる気」という名のバイタリティーだけだと自分に言い聞かせていた。これが唯一の財産と確信した若い恐れを知らない、無垢でロマンに満ちあふれた時代でもあった。

 その「東海大放研」に入部した私はそれからの四年間、全身全霊で部活に没頭した。たとえ大学の学部は卒業できなくても、この「放研」だけは絶対に卒業シテヤルという意気込みで、、、青春の燃える想いをすべて傾注して、ひたすら部活に没頭していった。
 それはこの放研で、何か自分の人生を左右するキラッと光るものを掴めると感じたからかもしれない。


                                             (つづく 次回は次の更新日)
今後の予定
  第2回  「苦労した音楽ソースの入手」
  第3回  はじめてのトライ”音楽の宿”「東海ミュージックイン」
の予定です。ご期待ください・・・