Essay                                               
 苦労した音楽ソースの入手
1965年度文学部広報学科卒     木村 正義
続き
 
 「木村ようっ! おめえっ判っか?ニューオリンズ(ジャズ)とディキシー(ランドジャズ)の違いをようっ、それとダンモ(モダンジャズ)の違いがようっ! 」いきなり、編成課のオリエンテーションで、入ったばかりの私に、先輩の生きのいい生粋の東京弁が飛び込んできた。
 DJ(ディスクジョッキー)番組を制作する我々に、豊田先輩(残念ながら1966年の暮れに退部されました)が、音楽のジャンルの講義をしてくれているときのことだった。  
大阪の高校時代には、毎月2回の例会(当時の“労音“と”学音“)に通い,かなり音楽に(主としてクラシック)親しんだ私も、いきなりジャズのジャンルの違いをと言われて、面食らったものだ。当時の放研にはこの豊田先輩のように、あらゆるジャンルに秀でた先輩がいて、「さすが大学だわ」と妙に感心したものだった。こうして多くの先輩に鍛えられ、しごかれ耳学問で得た知識と雑学を糧に、われわれの番組作りが始まっていった。

 今はCDやMD,そしてi-PODやネットでの音楽ソース全盛の時代であるが、当時はDJ番組を一本制作するにも、それに流す音楽ソースを確保するのが大変な時代でした。音楽ソースといえばあの頃は“お皿”そう、レコード盤です。{レコードもLP盤(33 1/3rpm)、EP盤(45rpm)、当時もうSP(78rpm)盤は使用されなくなっていました。}
1962年頃はLP盤一枚が二千円以上もした時代です。
 当時の地方からの学生に対する仕送りの平均が一万五千円/月くらいの時代。アパート代は畳一畳千円(六畳間で六千円くらい)、もちろん六畳間にひとり住むなどという贅沢が誰でもが出来るわけではなく、多くは気の合う友人と家賃を半分ずつ出し合ったり、四畳半や少しでも安い下宿を探して住んでいた時代ですから。海洋学部の森延弘くんと、工学部電子工学の渡辺すなおくん(故人)は経堂のアパートで、端から見ていてもほほえましい、いい(ルームメイト)友人同士でした。ちなみに私は4年間、世田谷代田で2食付の三畳間の下宿暮らしでした。
   LPレコード
 モノがなくても、カネがなくても何とかなるさ、というより何とかするさ、しなければ昼休みに「スリーピーラグーン」のテーマミュージックで始まる、定時放送のDJ番組が組めなくなってしまう。
 四月に入部して番組制作が始まった頃には、もう梅雨のシーズンに入っていた。六月の梅雨どき降りしきる雨の中を、東京都立日比谷図書館のレコードライブラリー室に,ひたすらレコードを借りに交代でよく通ったものです。往復の道々、じめじめした霧雨の中を、目いっぱい借りた重いレコードの束を小脇に抱えて、新緑の公園に薄紫の花弁をいっぱい広げ、鮮やかに咲いているアジサイの花にも気づかず地下鉄を乗り継いで、ようやく部室にたどり着いた安堵感と欲しいレコード(ソース)を手にした満足感。ほんとに純粋な作業でした。(深夜まで24時間営業しているTUTAYAでCDやDVDをちょっと借りてくるのとはワケが違うのデスゾ。勿論ネットでダウンロードなんて便利なモノのない時代です)
当時の日比谷図書館は、大学のクラブ名で登録すると最大LP20枚を一週間くらい無償で貸し出してくれていました。

 
 プロ用放送機器の調達は、ジャンク屋めぐりーそれは楽しい宝物探しから始まった

 この苦労して調達した“お皿”(もうこの頃には一人前の大学放送人気取りで、レコード盤をこう呼び捨てにしていました)を回すには、皿回しのレコードプレーヤ(デスクと呼んでいたような気がします)が必要になってきます。当時のDJ番組では曲のアタマをカットインできるように、あらかじめ“お皿”にカートリッジを乗せて、4分の1から3分の1回転くらい逆転させて“アタマ出し“をしておいて、そのままの状態でターンテーブルをスタートさせておいて”お皿“の下とターンテーブルの間に敷いた「スリップシート」を指でつまんで”お皿“の回転だけを止めておくというテクニックがプロの常套手段でした。
 この機能(?)のついた(というより若干ハードな使用に耐えられる)ターンテーブルは、プロ用の放送機器だけでした。私が入部した当時には代々木校舎の2号館の狭いスタジオ兼部室には、もうこのDENON製の二連式デスクがデンと据え付けられていました。いつごろ仕入れたのか、かなり使い込まれた老朽化したしろものでした。 余談ですが、この代々木2号館1階にあったスタジオの狭いこと狭いこと。ミキシングルームは定員2〜3名で肩が当たり、アナウンスルームもせいぜい2名で息苦しくなって酸欠状態。この狭い部室に時には十数名の部員がひしめき合うのだから、冬は人いきで暑いほど。夏はエアコンなんて無い時代、想像するだけで今でも汗が噴き出して来るような気がします。そんな中で、なかば酸欠状態で朦朧としながらひしめき合って、定時放送の番組の制作を競い合ったものでした。
  2連ディスク(FM東海)
 またドキュメンタリー番組の制作をするのに、デンスケ(フルトラックのモノラル携帯用録音機)は貴重な放送機器でした。報道番組の制作のためにはどうしても欲しい。喉から手が出るくらいデンスケは必要でした。まだ六大学の中でもデンスケを持っている放送部は皆無の時代でしたから。
 これらのプロ用“皿回し機”やデンスケは新品は数十万円もするもので、大学の放送研究部がとうてい買えるものではありません。でもなんとかしなければ、、少ない予算の千円札を何枚か(当時から部の予算はそう多くはありませんでした)握りしめて、夏のギンギラギンギラ太陽の照りつける中を、熔けるようなアスファルトを踏みしめ、三軒茶屋のジャンク屋にデンスケの掘り出しものを探しに、皿回し機の出物のを見つけに走りまわったことがほんとに、昨日のことのように思い起こされます。
 このジャンク屋さんは、NHKの払い下げ専門の店で、中古でもまだまだ十分使用できる、掘り出し物の放送機器ばかりを扱っていました。こんな穴場を知っているのは東海大学放研だけで、これは当時NHK技研(NHK放送技術研究所)に顔の効いた大喜多英義君がいたからこそできたことです。彼の当時の功績はそれはもう偉大なものでした。英義くんがいなかったら、当時のドラスティックな野性的ともいえる東海大放研の部活はなかったかもしれません。(彼は、その後の九州一周取材旅行と東北一周取材旅行の隊長もつとめました)そしてこれらの機材を安く仕入れては、他大学の放送研究部へ斡旋したのも、今では懐かしい社会勉強(商売の基礎)のひとつとしての思い出である。

   初めて語れる、あの頃のありえない最新版ミュージックソースの入手方法

 なかなか手に入らない音楽ソースを、そのときどきのヒットソングや音楽の最新版を何とかして手に入れたい。新しい時代にあった放送番組を制作したい。放送に携わるものの本性かも知れません。そう願う我々には、強い味方がおりました。
当時の「FM東海」(現在の「東京FM」)ですが、そこに放研OBの頼もしい吉村先輩と、頼もしい郷田先輩がいらっしゃったからです。
 東海大学は、全国の大学で唯一放送局を持っていた大学です。それも(FM)という日本ではまったく新しいメディアです。当時は「FM放送の黎明の時代」、NHKは公共放送としてのFM放送の試験放送を行い、FM東海は日本でたった一局しかない[FM民放実用化試験局]でした。
 この、FM放送の民間放送局としての実用化のために、FM東海は商業放送としての実験と実績を探りながら、積極的にスポンサー名をいれたCM放送を展開していました。当時の入学願書には勤労奨学生制度の案内があり、勉学したいとする苦学生に広く門戸を開いて、「大学内の工場の製造ラインでFMラジオを造りながら勉学できますよ」との呼びかけが記載されておりました。
 我が東海大学が積極的に「FM民放実用化試験局」の運用と、やがて来る新しい時代を見すえて、FM放送の聴取者拡大のための、途方もない「FM受信機」の普及拡大の一翼を担い、産学一体となってキャンペーンを展開していたことの事実を、今のFM全盛の時代に実感するとき、松前重義総長の深い洞察力と科学者として、教育者としてそして思想家としての信念の強さと偉大さが、あらためて思い起こされます。
 学校工場製作/初代FMラジオ
 私学で、「FM東海」という民放FMの「実用化実験局」を展開できたのは、東久邇宮内閣と幣原内閣で、元逓信院総裁(当時郵政大臣で現在の総務大臣)を務めた松前総長の苦節(二等兵物語をご一読ください)を乗り越えてきた逞しい生命力と、それを支えきった武道家として、真の政治家としてのすばらしい信念と手腕があったからだと私は確信しています。
 卒業後、その産学共同事業のパートナーであった、(その当時FMラジオの生産を発注・販売したメーカー)「トリオ株式会社」後のKENWOOD(現JVC&KENWOODホールディングス)に私が入社したことは、何かの偶然ではなく今となっては(宿命的)な出会いであったと感じています。
 
  
正調版―ジェットストリームについて
 
  たしか、城 達也氏(私が尊敬する放送界の名ナレーター:1931〜1995)の日本航空(JAL)提供の夜間飛行の名パイロット「ジェットストリーム」も、その頃の深夜族をターゲットに始まった番組だったと思います。
 あの音楽の名セレクションと、懐かしい名ナレーションをあなたは覚えていますか?

     
 遠い地平線が消えて 深々とした夜のやみに心を休めるとき
      はるか雲海の上を音もなく流れさる気流は たゆみない宇宙の営みを告げています。
      満天の星をいただく 果てしない光の海を ゆたかに流れゆく風に こころを開けば
      きらめく星座の物語も聞こえてくる 夜の静寂の なんと饒舌なことでしょうか
      光と影の境に消えていった はるかな地平線も まぶたに浮かんでまいります


  いまでもこの気品のある城さんの声が昨夜の番組のように聞こえてくるようです。
そしてすばらしい選曲で彩られた音楽のエンディングラストナレーションも卓越していました。

     
夜間飛行の ジェット機の翼に点滅するランプは 
      遠ざかるにつれ次第に 星のまたたきと区別がつかなくなります

      お送りしておりますこの音楽が
      美しくあなたの夢に熔けこんでいきますように・・・


 まるで一編の詩のような、このエンディングのナレーションの余韻が、未ださめやらぬうちに、ちょっと無音の間合いをとったステブレの後に、「ただいまから試験電波を発射します、、、」と聴きなれた吉村先輩の声が聞こえてきました。(右下写真)技術部の先輩のOBのアナウンスの声も城さんに聞き劣りしない、クールでさわやかなトーンでした。 (城達也さんのこの名ナレーションは、YouTuBuで, 今でもお楽しみいただけます)
 (上の「ジェットストリーム」をクリックしてください。実際に聞くことができます。)
 
 
 われわれには、強えーえ味方があったのだ、、、
 FM東海_吉村先輩
 そして発売されて間もない最新の新譜のレコードがオン・エアされてきました。そう、虎ノ門のスタジオには吉村先輩が陣取り、代々木富ヶ谷の2号館の送信所には、同じく技術の郷田先輩が当直していて、傍らにプロ用の”2トラ38”のスチューダー製の「業務用ステレオレコーダー」がフル回転していました。今ではありえない、信じられない光景がそこに展開されていたのです。
 あのころ、FM東海の電波は東京タワーからではなく、代々木校舎の屋上の送信アンテナから関東一円に発射されていました。もちろん、次々とオンエアされていく新曲は、すべて我々放研部員がリクエストした曲ばかり。その日の全放送番組の終了後、機器調整のための試験放送で、最新の輸入盤をさりげなく流していく。深夜遅くまでラジオを聴いているFM東海のリスナーへのサービスをかねながら、肝の据わった先輩の心づくしでした。

 当時、実用化実験をするための音声信号は、虎ノ門のスタジオから代々木の送信所までは、日本電電公社の専用電話回線で、NHKよりも素晴らしい音質で送られていました。
 その貴重な音楽ソースを郷田先輩は、エアモニ(放送された電波を受信すること)ではなく、送信前のソースをダイレクトにチェック(録音)して我々にプレゼントしてくれたのでした。  
 時には、我々も真夜中の送信室に呼んでいただいて、吉村先輩ともども、新曲のソースチェックをしながら、先輩方と楽しく語り合いながら、渋谷富ヶ谷の東の空を見上げて、白々と明けてくる心地よい朝を迎えたものでした。東海大放研のクラブ活動だからこそ味あえた、今では懐かしい大切な思い出である。

 当時のメンバーには先述の大喜多君のようなユニークな人物が多く、個性豊かにそれぞれが得意分野をもっていて、クラブの中で自由奔放に思う存分やりたいことをしていたように思います。文連(文化部連合会)に所属していながら、自動車を2台所有(1台は町田の幼稚園の廃車になったトヨエース。もう1台は1956年型後期のダットサンのピックアップ。) 
 体連(体育連合会)のワンゲル(ワンダーホーゲル)もどきの「あそび課」は、夏と春と冬の年三回の合宿を仕切る強面の、にわか山男の集団でした。あの頃からイケメンで、遊び人学生の、行き所の無いセミプロバンド「片岡雅男と???」(当時首都圏の学生バンドとしては、かなり名を売っていて、当時でも演奏バイトで飯が食えたバンド)を放研専属バンドとして抱え、文連主催の始めての「ダンスパーティー」を興行(プロデュース)して黒字にしたのも、いまでは夢のような不思議な出来事としか思えない。

                                                     (つづく)

上記,レコードの写真は以下のURLより引用させていただきました。

http://sorahei-s.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_200/sorahei-s/m_P1240576tr.jpg
なお,上記写真は東海大学学園史資料センター所有の資料から使用させていただきました。


次回は最終回です。
  第3回  はじめてのトライ”音楽の宿”「東海ミュージックイン」
の予定です。ご期待ください・・・