Essay                                               
 はじめてのトライー“音楽の宿”「東海ミュージックイン」
1965年度文学部広報学科卒     木村 正義
続き
 

 我々の時代に、はじめて挑戦した「東海ミュージック・イン」の舞台照明は、高校時代から演劇にはまり、放研のドラマ課に入部してきた酒井正弘くんに、そのリーダーシップを存分に発揮してもらった。演劇照明に造詣の深い酒井正弘くんは、どうすればその舞台が美しく見えキャストが生き生きと舞台栄えするかを熟知していた。
ストリップのダンサーがどうして綺麗で艶やかに見えるのかを知っていて、それを実証してくれたのも彼である。あの真面目一徹の佐久間哲夫くんが、偶然「S-PINのサクマ」とニックネームをつけられるきっかけをつくったのも酒井くんである。佐久間くんはこの「東海ミュージックイン」で、照明のチーフを任されていた。このイベントはお堅い佐久間君の、もうひとつの顔を見ることが出来るエピソードも作りだしたのである。それは、
 私の猛烈な反対を押し切って、編成課からアナウンス課に鞍替えした、ミス放研(?)でアイドル的存在の草野恵子さんは、「東海ミュージックイン」の中で、ステージに立ったただひとりの女子アナだった。その彼女の初舞台、舞台栄えさせる効果を狙ったのか、はたまたアイドル恵子をもっともっと魅力的に演出するためなのか、酒井君は彼女だけに照てる特別のゼラチン(照明用のフィルター)を佐久間君に内緒で用意していた。それが「ピンクの18番」である。 
 当時の照明マンはハードな作業である。ましてはじめての「大型イベント」、失敗は許されない。プレッシャーの中、佐久間君は緊張感いっぱいで、会場の熱気と1キロワットの「ピンスポ」の放射熱を直接浴びて、汗だくになりながら塩をなめ、やかんの水をがぶ飲みしながら懸命にやっていた。舞台進行のキューが出て、あらかじめ用意していた「例のゼラチン」をセットして1キロワットのピンスポットを当てた瞬間、彼の手が止まった。自分で狙ったライトに浮かび上がった司会者の草野恵子さんのあまりの艶やかさに、その肌の美しさに(??)、「ピンクの18番」を照てっぱなしにして見とれていた彼のスタイルからついた名誉あるニックネームである。ちなみにS-PINとは、ストリップピンクの照明用語である。
 その公演の初舞台の総合司会は、新宿や池袋の「らんぶる」などの深夜喫茶で、DJをやっていた鳥飼弘昌くんが中心になってやってくれました。彼の機転の効いた巧みなアドリブは、絶妙なタイミングで舞台進行の間合いをとってくれ、バンドの入れ替えや舞台装置の展開が、実にスムースにできていた。観客を楽しませ、飽きさせないセミプロレベルの実力者の彼の話術があったからこそ出来たこと。あの時代は個性豊かな人物がひしめき合っていた恵まれた時代でした。
 
 個性が豊かということは、それだけ価値観の差が出るものです。価値観の違う、いや異常なくらい個性の強いもの同志の集団の中では、ぶつかり合うのは日常茶飯事でした。そんな仲間がいたわり合い人間関係の機微を知り、時間の経つのも忘れて遊びも喧嘩も全てやり尽くしました。
 ここまでは許されるという手加減や、”いい加減”のレベルを確認しあい、良いこと悪いことの違いを実感しあったときでした。この放研で生涯の友を得、人を愛することを知り、困難に立ち向かう不屈の闘志を養い、いろんな体験をしました。すべてが人生へはじめて踏み出す助走路のようであり、放研のスタジオは幼児が遊ぶ暖かい心地よい砂場だったようにも思えます。
 
 
「もうひとつのトライ 〜録音構成コンクールでダブル入賞!〜」
 
  わたしが初めてトライしたドキュメンタリー「盲学校に学ぶ人をたずねて」は、当時の「東京都立文教盲学校」を取材した作品で、「目の不自由な人のコミュニケーション」をテーマにしたものでした。この作品は、大学放送連盟主催(関東地区:略して大放連)の録音構成コンクールで堂々の2位入賞に輝き。当時、広報学科二年生の「番組制作」の講義の中で堀江教授のモデル授業の教材として紹介されました。
 同作品は、全国の大学放送部が集まる全日本学生放送連合主催の録音構成コンクールでも3位に入賞。東海大学放研として創部以来はじめての、録音構成コンクール地区・全国ダブル入賞を果たしました。このときのナレーターが、曽我泰朗くん(卒業後は南海放送アナウンサー:2009年現在南海放送会長)ミキサーは岡本忠志くん、音楽は当時放研専属バンドのイケメンギター奏者の高橋宏先輩にエレキギターで、アドリブでオリジナルソロを弾いてもらいました。
 
 
{Hi-Fi時代の幕開け 〜ドラコンでも技術賞獲得!!〜}
 
 ドラマコンクール、通称「ドラコン」でも、ドラマ「単騎待ち」で技術賞(大放連)を獲得。このドラマの制作のときは、マージャンを打ちながらの回想シーンが重要なので、麻雀テクニックの考証とリアリティを出すために、特別に貸してもらった「エフエム東海」の「虎ノ門スタジオ」に麻雀牌と雀卓を持ち込んで、実際に麻雀を打ちながら収録していきました。
4人の打ち手は、TBC効果団の名を借りた「あそび課」の面々。ベテラン雀士の高崎宏夫くん佐武省一くん、後輩の松木正紀くん、もう一人はたしか久我谷裕くんだったかな。後にも先にも、おそらく虎ノ門の「エフエム東海」のスタジオの中で麻雀を愉しんだメンバーは、当時の彼ら以外にはいないはずです。
 さすがに、ハイクオリティな音質(Hi-Fi)を重視する「FM民放放送実用化実験局」で収録したこのドラマ「単騎待ち」の音質は抜群で、審査員はドラマの内容よりもそちらの方を評価してくれたのか、ともあれ総力をあげて獲得した見事な「技術賞」入賞でした。
 
 
大胆不敵なはじめてづくし
 
 話しをちょっと戻しますが、あの東海ミュージック・イン(TOKAI MUSIC INN)(音楽の宿)は大学生がプロデュースする「音楽祭」で、これも我々が初めてトライした興行でした。
 はじめた動機は、ただ司会術のレベルを向上させたいと思う純粋な気持ち。その気持ちだけで、我が放研はとうとう首都圏で初めて、いや全国ではじめての大学生の放送研究部興行という、大それたエンターテイメントの世界にまで入り込んでしまったのですから。
 入場券の発売、税務署での手続き(いかに税金を安く納めるかを試行錯誤:別の意味では体のいい脱税・・・?)。プロのバンド(松本文男とミュージックメーカーズ)との出演交渉、キャスト、舞台台本、照明、演出、大道具その他楽器運搬にいたるまで、初めて体験することばかりでした。無謀といわれればそのとうり、なにも怖いもの知らず、向こう見ずの無鉄砲ものの集まりでした。
  はじめは大学の講堂(代々木4号館)を借りて、恐る恐る手探りではじめたこの「東海ミュージック・イン」はその後会場を、「杉並公会堂」「文京公会堂」そして「新宿厚生年金会館」とグレードアップしてゆき、名だたる会場とプロのバンドとアマチュアバンド(有名大学の音楽サークル)の競演をうたいあげて、出演者を舞台にあげ、次々と開催していったのですから、若いからこそ出来た素晴らしい体験です。いま思えばゾッとします。
(下のチケットは第3回ミュージックイン・杉並公会堂でのチケットサンプルです。これは三つ折りになってい
 て内側にプログラムが書かれています。)・・・括弧内は佐藤が記述。
当時のミュージックイン・チケット













 
 「上級生から一年生まではじめてのドキドキのテレビ放送」
 
 入学したその年の11月の建学祭の放研の目玉は、「テレビジョン放送」でした。これも入部して最も緊張した、初体験の連続であった。工業用テレビ(ITV)カメラ。今の監視カメラよりも解像度の悪いテレビカメラを駆使してのドラマ作り。もちろんモノクロ(白黒)でVTRなしの連続生放送。連日、代々木校舎に泊り込んでの番組制作。本番で、極限まで追い詰められたその緊張感はいま思い出しても冷や汗ものです。
 原作の選定から、出演者の決定、台本作り、カメラコンテ(絵コンテ)の作成、などなどテレビドラマの制作など、したこともない一年生部員が未知の世界に猛然とトライしていくのですから。
 あの時代、大学放送クラブの活動の主流は、ラジオ番組制作が全盛の時代。テレビ番組の制作について見聞きすることは知らないことばかり。寸暇を惜しんでは、図書館で参考になる本をあさり。先輩からアドバイスを受け、新宿の紀伊国屋書店に通っては、専門書コーナーで最新の「制作テクニック本」立ち読みしては、テレビ番組造りのノウハウを盗み、映像用語のなめショット、パン、チルト、ズームイン、ズームアウト、タリーランプなどの言葉を覚え、なんとか本番に漕ぎつけられたことが懐かしく思い出されます。
 TV中継技術陣
 我々がドラマ作りに悪戦苦闘し、無我夢中になっているとき、技術課の面々(主に通信工学部専攻の学生諸氏)は、先輩を中心に当時の放研顧問の谷村功工学博士のコネを最大限に生かして、テレビ放送機器の調達に奔走していました。当時から有名だった工学部の数多くのOB諸氏が就職している沖電気・岩崎通信機ほかのメーカーに夜討ち朝駆けをかけて、当時開発されたばかりの最先端の工業用ITVのシステムを借り出し、ようやく建学祭で放送できるテレビ放送の設備を完成させたのでした。
 一方、アナウンス課やドラマ課そして編成課の我々は、番組制作のリハーサルの合間に総動員で大学近郊の食堂や喫茶店、理容店文具店などなど、それこそハゲタカのように広告(体のいい寄付)を集めに走り回ったものです。私の押しの強さは、この頃に無理じいされて(?)培われたのだナと近頃ふと思うことがあります。
 この、建学祭のテレビ放送の模様は、当時の大学当局の広報課の目にとまり、大学のPR映画「東海大学」にその貴重な一場面が残されています。(1965毎日映画社制作) 今の時代の「婚活」ブームに通じるかもしれないテーマを、私は40年以上も前に何気なく選んでいました。
 この「長女」(阿木翁助作)というドラマの主役は尾方洋子先輩。物語は、嫁に往き遅れた長女をさしおいて、次女の縁談が持ち上がったたことから始まります。(余談ですが尾方先輩はとても魅力的な方で、我々後輩男子部員の憧れの君でした)、その妹の婚約者に曽我泰朗くん、(彼は私の大事な番組制作には必ず重要な役どころに出てくれています)。その妹のヒロイン渡辺裕子さん(中途退学されその後の消息は不明)、そしてドラマを引き締める重要な役どころの頑固な父親役に渡辺すなおくん。(故人)を抜擢したのでした。

   
「リーゼントの笠智衆なんて、とんでもない!」
 渡辺愿氏
この渡辺くんに私が要求した演技が{笠 智衆}のような雰囲気を出して欲しいという欲張った無理な注文。宮崎県出身の無骨な彼は「そんな俳優なんて知らない」ときっぱり。無理もない、未だ若い十八歳の彼、少々老け顔でもまだニキビの跡が残っている。
 その上彼のヘアスタイルは当時流行った(リーゼント)。「長髪のしかもリーゼントの笠智衆なんて、とんでもない」。初めてのテレビドラマの演出担当で、どうしてもイメージを作り上げたい私は、「絶対に床屋には行かない、だったらこの役はおりる」と必死に抵抗する彼を、連日説得に説得、ただひたすら説得してなんとか長髪をいくぶん短くさせ、先述の演劇に詳しい酒井正弘くんの力を借りて、ヘアパウダーという魔法のメーキャップでとうとう彼を白髪頭にさせ、にわか仕立ての笠智衆にしてしまったのでした。結果は私が期待した以上の演技力と、抜群の渋い雰囲気を出してくれて上々の出来でした。(写真・上左は話題の渡辺愿さん)
その後、彼はそれがよほど悔しかったのだろうか。合うたびごとに「あのときだけだよ、しぶしぶ髪を切ったのは」と言った彼の言葉が、懐かしくいまだに耳に残っています。
 
 {無謀といわれた、我々のトライ「九州一周取材旅行」}
 
 その大胆な発想の筆頭が、我々が大学二年から三年になる春休みに強行した「九州一周取材旅行」。これについては、長くなってしまうので、また機会を新たに当時の記録担当の吉田邦行くんや、コック長の高崎宏夫くん、それぞれが役どころを担当したみんなで書きあげていきたいと思います。
 ただすんなりとこの企画が実現したわけではなかった。春休みの40日という長期間。東京から東京から鹿児島への自動車旅行。宿泊費や食費などのかかる費用の総経費の試算。そして使用する自動車の調達など、さまざまな問題が山積みでした。
 中でも学校当局の学生課の了解をクリアするのが大変。そこで参加14名の保護者連名で大学総長宛に「万が一事故で死傷するようなことがあっても、大学には一切責任を科することはなく、すべての行動の責任は参加する個人に帰する」という趣旨の覚書を提出して、ようやく代々木校舎を出発したのでした。
 そしてこの『九州一周取材旅行」の成功をベースに、後輩たちがさらに厳寒の雪の行軍に挑戦してくれた「東北一周取材旅行」,「中国地方取材旅行」。それぞれ、失敗もあり成功もありました。未だ若い我々の、そんな小さな実験の繰り返しが、少しずつ小さな自信と経験を生み、やがて大きな人生の目標に挑戦する逞しい心を育ててくれたように思えます。私にとってかけがえのない、貴重な圧縮された四年間だったと、懐かしく思い起こされます。  
  
 さて、これら二つの冒険旅行のひとつ、「九州一周40日間取材旅行」で、宮崎県東臼杵郡長崎村の1級過疎地区に取材に入る前に、現地の様子の事前調査のために、当時の民放の宮崎放送に立ち寄ったとき、局の技術さんからため息交じりでうらやましがられたのが、デンスケ5台を持ち込んだ我々の装備でした。当時の宮崎放送(MRT)にはたった一台のデンスケしか無かったのですから、、我々がこれ見よがしに持ち込んだデンスケはすべて、あの三軒茶屋のジャンク屋で買い叩いて調達した、NHKの払い下げのセコハン(中古品)でした。
 
 さて、35年、40年。45年と記念の式典を続け、この50周年から、あと2年後には「55周年」を迎える「放研」はどうして誕生したのでしょうか? 
 それは偶然の出会いから生まれました。それは、一冊の本―わたしたち「放研部員」が一度は手にしたあのNHKの「アナウンス読本」とふたりの男の出会いです。
 
 (わたしだけが知っている、東海大放研誕生の秘話、、、)

 ふたりの男。それは先ほどからずっと印象深く書き綴っている、創部者の吉村先輩と宣寿司先輩のふたりです。桜の花が満開のうららかな代々木富ヶ谷の、春の陽だまりの教室で、なにげなく「アナウンス読本」を拡げていた吉村先輩の脇を通り過ぎようとした宣寿司先輩(お二人とも通信工学専攻)が、「君、そんなことしてるの?」と声をかけたのがきっかけでした。     
 そのまま通り過ぎてしまえば、何も無かったかも知れません。なにも起こらなかったかも知れません。一瞬という偶然、その一瞬の偶然から生まれたこのクラブ「東海大学放送研究部」は、ふたりの男が「偶然」を「必然」に変えたことから始まりました。お二人の出会いは五十年余も続く伝統あるこのクラブの絆の始まりでもあったのです。
 
 1955年。その春にこのクラブの素晴らしい出会いが始まりました。昭和三十年のあの日から数多くの人生が始まりました。一冊の本「アナウンス読本」と、ふたりの男の出会いから生まれたこの「放研」が、今これほどまで大きな人の輪を造っていくとは、両先輩の想像をはるかに超越した出来事だと思います。
 いま、こうして創部五十周年余の活動の歴史を刻むことが出来るのは、両先輩あってのことだと思います。これからも、この「東海大学放送研究部」はもっともっと大きな人の輪を繋ぎ、ますます大きな人の輪を拡げていきます。これは嬉しい楽しいことです。素晴らしいことです。今すぐ傍にいる親しい友が、これからの人生の指針を決めてくれることもあるのです。「東海大学放送研究部」は、そんな素晴らしい出会いの場でもあるのです。
 
 たったふたりの男の出会いが、二十世紀から二十一世紀にもわたって、こんなにも大きな人の輪を創り続けているのですから。継続こそ歴史。ここまで続いた「放研」の歴史がそれを物語っています。(吉村先輩は1989年11月にご逝去されました。宣寿司(東恩納)先輩の消息はあるときから途絶えました。どなたかご存知のOBの方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。
 三年前(2006年)にこの「放研創部五十周年」記念パーティを祝えたことは、50年前の偶然の出会いがあったからです。あの時から始まった我々の、青春の確かな瞬間、瞬間を見つめなおし、見詰め合ったあのときを今一度想い起こし、あの頃のなんにも邪心の無かった素直な気持ちにかえってお互いの今を見つめなおすことは大切なことです。
 そして今日からの、明日からの新しい課題に迷うことなく、起ち向かっていく勇気を呼び起こすこともっと大事なことです。我々は未だ「青春」の真っ只中にいるのですから。
 
 
「青春」―あなたはまだ青春してますか?
 

 「青春」とは人生のある期間ではなく

                 
心の持ち方をいう。

  
歳を重ねただけで人は老いない。
            
理想を失った時 初めて老いる。

  
人は 信念とともに若く
            
疑念と共に老いる。

  
人は自信と共に若く
            
疑念と共に老いる。

  
人は希望と共に若く
            
失望と共に老い朽ちる。

  
いま 頭を高く上げ希望の波を
            とらえる限り、
  たとえ何歳であろうと君は若い。

  
「若き日に 汝の希望を 星につなげ」と呼びかけてくれた 建学の人 松前重義総長の素晴らしい訓言は、人生の先達が いつまでも青春を忘れないでいて欲しいと われわれに願い呼びかけてくれる 優しくも猛々しい雄叫びであると私は信じます。
                                      
 放研の五十数年の歴史は、まさにその時代時代を生々しく一所懸命に生き、悩み苦しみ、励まし合い、ぶつかりあったそれぞれの青春の積み重ねです。これからも、大いに悩み、苦しみ、励まし合ったあの日を想い起こし、ぶつかり合っていきましょう。そしてお互いが助け合い支え合える集まりにしてゆけたらと思います。
 これからの次の世代が「六十周年」「七十周年」「八十周年」と企画してくれる記念式典に、いつまでも微笑みながら、元気でにこやかにやさしい笑顔で参加していきましょう。

 
[ 頑張れ放研! がんばれOB!!まだまだ青春! ! ]

               
            完
  
  上記,TV中継画面の写真は「東海大学」(DVD)の放送研究部TV中継場面より引用させていただき
 ました。


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