Essay                                               
 「その時私は東京ビッグサイトにいた
東北関東巨大地震(2011年3月11日)  
1965年度文学部広報学科卒     木村 正義
 ★その時 2011.3.11.pm14.46ごろ

 ガサガサッ、ゆさゆさ、突然会場内の空気の動きが変わっていた。ガサガサッ、ゆさゆさ、グラグラッ、
いやな音が響いたと感じた次の瞬間身体が細かく左右に揺れ始めた。
{地震だ!}岡山からこのビッグサイトの「Security Show 2011」の展示会を見に来ていた私は、東京
暮らしの時に体験していたいつもの地震くらいに思って、ちょっと足を止めて様子をうかがっていた。
その次の揺れに異常な体感を知って、「エエッ、何っ、これ?」そう思う間もなく、揺れはますます激しく
なってきた。両足を踏ん張って支えていても立っていられないほどの強烈な揺れである。思わず展示
会場の天井を見上げた。高い高すぎる天井の頂点で¬、何かが閃いている。天吊り金具の一部かも
しれない。
 「ヤバイ、こんなところにいたら怪我するかもしれない」急いで会場の出口付近の、天井の低い場所
に移動しようと思う前に、立つ事も出来ない足が本能的にそっちに向いていた。助かりたいと思う気持
ちが、脳がそうさせたのだった。
 こんどは音が変わった。がたがた、ズシーン、ごとごと、みしみし、異様な不気味な音とともに、低い天
井の部分が上下に振動している。持たれているコンクリートの壁が鉄筋の柱の振動がブルブルと手の
掌に感じる。    次の揺れはもっとすごかった。
 「怪我するかも知れない、場合によっては死ぬかもしれない、」生まれて初めて生命の危険を感じた
一瞬だった。
私は揺れが終わるのをひたすら待った。長い、ながい時の過ぎるのを待つ。それでもなかなか揺れは
収まらない。少し揺れが小さくなったとき、ひしめき合っている狭い出入り口の方向へ誰かが突然走り
だそうとした。思わず私は大きく叫んだ。
 「走るな!走ったらけがするぞ!走るな!」私のどなり声が聞こえたのか、どうかそのあとに続く群衆
は誰もいなかった。

やっと揺れが治まってきた。3〜4分ほどだったのか、いやもっと長い時間だったのか。私にはずいぶん
長い時の流れに感じていた。こんな大きな地震の直後なのに、まだビッグサイトの「防災センター」の案
内放送は何もない。右手が勝手に携帯電話のワンセグ放送を呼び出していた。
「東北地方、三陸海岸で震度7強、マグニチュード8 .8間もなく3メートル以上の津波が来る予定、津波
警報が発令されました。海岸付近のみなさんは、至急避難してください」画面で生々しく、この大地震の
ことが放送されている。
それでもこのビッグサイトの「防災センター」の緊急放送はまだ何も始まらない。

私は少しずつ、歩調を早め歩幅を広げながら、会場の外の安全な場所を探した。午前中晴れていた空
の雲が多くなっていた。にわかに空が暗くなったような気がした。
 「あっ、燃えてる、燃えてる、火事だ」と思った瞬間、サイレンの音がけたたましく近づいては遠ざか
っていく。救急車、パトカー、消防自動車がすぐそばの道路を走っていく。それぞれのサイレンの音が混
ざり合って、まるで戦争がはじまったような光景である。私が目視したのは、東京テレコムセンター近く
での火事だった。この時点では、まだワンセグ放送では、東京の震度は確認できていなかった。
私の頭の中を、1923年の「関東大震災」のことが、ふと脳裏をかすめる。最初の揺れが治まっても、まだ
余震が続いている。およそ10分後、ようやく緊急放送が始まった。
「ただいま、地震がありました。東北地方で震度7の地震がありました、・・・」
放送を聞きながら、これだけの国際的な展示会場で、数千人が集まっている会場でこの人たちの生命
の安全と、適切な避難誘導が出来ない「防災センター」の危機管理システムに不満を感じながら、もう
次の行動は、ここから一歩でも遠ざかる方法を模索していた。
その頃すでに宮城県では町が、市が一瞬にして大津波に襲われ、多くの人々が猛烈な津波の渦の中
に飲み込まれていたことなど知る由もなかった。

★初めての体験「東京帰宅難民

 すでに「ゆりかもめ」は止まっていた。タクシーを探したが乗り場には1台も待っていない。あとの交通
手段はバスか、水上バスしかない。しぶしぶ最後列に並ぶ。もう五百人以上の列ができていた。5分、
10分おきにバスを待ちきれないグループが離れていく。五百番目ぐらいに並んでいた私は、みるみる二
百番の半ばぐらいまでに、前に近づいていた。
 「これは意外と早く乗れるカモ」と期待するが、バスはなかなか来てくれない。しびれを切らしていた私
の耳に、列を誘導していた係員の肉声が聞こえてきた。
「後ろの方に並んでいる方から、速やかに階段を上がって高い場所に移動して下さい。ただいま、東京
地方に大津波情報が発令されました。危険ですから走らないで避難してください。」パニックにならない
よう、肉声で呼びかけ、慎重に聞こえた人から誘導していく。
 今日、二度目の生命に危険を感じるメッセージである。ワンセグで大津波の情報を確認していた私は、
またもや大股でそそくさと階段を駆け上がっていた。もうバスの選択は無くなった。水上バスも津波が来
るというのに運航するはずもないだろう。
 「もしかしたら、ゆりかもめの運行が始まるのでは」と最後の望みを託して駅員に尋ねる。駅の係員はモ
ノレールの地図を配りながら、歩ける人は歩いてください。新橋方向を目指してこの地図を参考に、、」と
声を嗄らしている。
 「じゃあ、晴海方向に歩けばいいんですね?その地図一部ください」
残り少なくなった地図をもらい、それを頼りに歩きだそうとしたとき、ひとりの男性が声をかけてきた。
 「あのう、東京駅まで行きたいんですけど、実は今日愛知(県)から出てきたばかりで、まったく東京は
不慣れなので、良かったらご一緒してもいいでしょうか?」「ああ、いいですよ、私も40年ばかり東京を離
れているのでちょっと迷うかもしれませんが、それでいいんなら」と気持ちよく応じていた。
 旅は道連れ世は情け、思わぬ災難に遭遇したもの同志、当然の成り行きである。ふたりで彼と歩きだ
そうとしたとき、彼が飲料水を持っていないのに気づいた。
「あの売店で、何か飲み物を買った方がいいですよ、こんな時は先ず水を確保しておかないと」年の
項で、なんどか災害に遭っている私は、ごく自然にアドバイスしていた。
 飲み物を買ってきた彼と二人で歩きだそうとした私たちは、だんだん同じ方向に歩いていく人々の波に?
み込まれていた。同じ方向に歩く人の群れが、列がだんだん太く、長くなっていく。
 流れるように人のかたまりの中を歩きながら、自己紹介をする。名刺交換もして黒柳さんというその若
者が、実に逞しく生きようとしていることを知って、話が弾んだ。不思議なもので、楽しく会話しながら歩い
ていると疲れない。これはウオーキングのコツである。     黒柳さんに、「東京マラソン」があるん
ですから、今日は予期せぬ「東京ウオーキング」だと思って、歩きましょう。体脂肪も減っていいダイエット
になりますよ。と軽口をたたきながら歩いていく。36歳の彼と68歳の私、はたから見ればどちらがリード
しているか明らかである。
もう先刻の地震発生直後から、岡山の家内に、東京在住の息子に、娘に携帯電話をしているが、つなが
らない。歩きながらまた電話するが、つながらない。東京も未曾有の地震に見舞われて、パニックに陥っ
ていた。
何度も何度も電話しながら、時折ワンセグに切り替えては情報を収集する。また電話してもつながらない。
ビッグサイトで公衆電話をかけてもつながらなかったのだから当然と言えば当然なのかもしれない。携帯
に頼り切っている現代人の悲哀を、期せずして味あうはめに陥っていたのに気づかされていた。

★「東京帰宅難民」本番

新橋まで行くという彼を、東京駅まで送って、別れた私は、ホテルまでの交通機関を探して東京メトロの大
手町駅の改札口に向かっていた。途中JR東京駅のアナウンスは、すべてのJRの鉄道、バスの運行を取
りやめたことを告げていた。歩いて帰宅することができる人は歩いてお帰り下さい。非常なアナウンスだっ
た。
東京メトロはどうなのか、わずかばかりの期待でようやくたどり着いた駅員の言葉は、柔らかく静かだった。
ひとかどの望みは、次の言葉で、無残にも砕かれていた。
「ただいま線路の状況を調査中で、復旧の見込みはありません。お客様もただいま大津波警報が出てい
ますので、速やかに地上に出てください。」
本日三度目の、身の危険を感じるメッ−ジである。あわてて地上への階段を探す。エスカレーターはすべ
て停止していた。もう足は棒になってパンパンに張っていた。

地上に上がって、見覚えある交差点を探す。何度か上京しているので知っているつもりでも、いざとなると
方向を探すのに時間がかかっていた。無理もない、40年ばかりも東京を離れ、いちどもこんな経験をして
いないのだから、たまたま出張してきて遭遇した「東日本巨大地震」でホテルへの道を探す羽目になった
のだから。    でもまだ体力には自信があった。ようやく方向を見つけて歩きだしていた。

目指すホテルは、地下鉄沿線の5つ目の駅である。通りにはコンビニエンスもあり、トイレもある。飲み物
類も、品切れにならない限りあるはずである。万が一ソフトドリンクがなかったら、ビールでも飲めば、喉
はうるおうだろうなどと、気楽に歩いていく。
その道は、千葉への幹線道路だった。だんだん歩く人の数が増えてくる。こちらは下り、向かってくる人は
上り、人数が増えてくると群衆同士の行軍である。黙々と歩いている人もいれば、職場の同志で家路を急
ぐカップルもいる。中には背中に「緊急持出袋」と書いたザックを背負って人もいる。
 すれ違いざまに肩と肩がドッとぶつかった。「すみません、ごめんなさい」ぶつかるたびにその都度詫び
るのはこちらである。相手は何も言わずに去っていく。そういえば40年前の私もそうだったな、東京は人
が多すぎて、こんなこと当たり前なんだ。でもぶつかったら会釈するのがほんとなのに。そのあとも、なん
どもなんどもひたすらブツカルたびに謝りながら、一つ目の駅が過ぎ、二つ目の駅のバス停を通過する。
「東京帰宅難民」の行軍はまだまだ続く。列を離れてバスターミナルに並ぶ人もいるが、なかなかバスは
来ない。
ようやく近づいてきたバスには、降車口まで人が鈴なりになっていて、多分乗れないなと思いながらひた
すら歩いた。ときおり小粒の雨がパラパラと降っては止んだ。そういえば天気予報は夕方から雨だと告げ
ていたなあ、と思いだしてガウンの襟を立てていた。
 
三つ目の駅を通りすぎる頃には、少しずつ難民の行列は細くなっていた。ちょっと歩きやすくなって、肩が
ぶつかることもなくなってきた。この辺でセブンイレブンに寄って、トイレを借りようとしたが人が一杯であ
る。
公衆電話の長い順番待ちの列と重なって、とぐろを巻いている。あきらめて我慢してまた歩き出す。
 歩きだして、ふと思った。まだホテルが近いから歩いて行けるけれど、私の前を歩いている会社員の会
話を、聞くでもなく聞いていると、まだまだマイホームは先の先であるようだ。もっと沿線の先に住んでいる
人はどうするんだろう。ワンセグではそんな人たちを「帰宅難民」と呼ぶそうだ。地震や天災地変で身を寄
せる場を求めるにはどうすればいいのか、すぐ後ろのOLらしき二人ずれの会話では、どちらか一方の家
に泊めてもらうようなことを言っている。こんなときだけなのか、でもいい関係だなあ。これがほんとの絆
なんだと思いながらホテルのある駅のひとつ前の駅を通過していた。
 不思議なもので、目的のホテルが見えてくると、棒になっていた足が柔らかく感じて、小さくなっていた歩
幅が大きく、足が少しずつ速足になっていく。ぐんぐん周りの人々を抜いてようやくフロントにたどりついた。
東京ビッグサイトを出発して、もう3時間40分が経っていた。(やれやれ、やっとひと風呂浴びられる)
部屋のキーを手にエレベーターのコールボタンを押そうとして、目の前にぶら下がった札を見て愕然として
いた。震度5強の地震のため、そのエレベーターは点検調整のために使用停止になっていた。忌々しくル
ームキーの番号を力なく見る。私の部屋は非情にも(bW30)8階の30号室であった。
どどっと疲れがいっぺんに足と腰にきた。その私の背中越しに、満室で止まれない客の宿泊を交渉する
声が聞こえていた。振り返ると、ロビーのソファーに大勢の客が、毛布を与えられて諦めたようにうずくま
って休もうとしているのが目に入った。
気の毒に。まだまだ私の方が恵まれているんだ。ふーっと一息入れてもういちど気を取り直すと、エレベ
ーターの横で、さあいらっしゃいとばかりに大きく口を開いている非情な階段口を、最後の気力を振り絞っ
てゆっくりゆっくりと一段一段登って行った。
その時、まだ私は、この「東日本巨大地震」の凄さに、今世紀日本を襲ったこの地震の凄さと、恐ろしさ、
ほんとの自然の怖さを、そして何千人の人々が亡くなってしまう大惨事の進行中とは知らないでいた。

                                                 ( 完 )  






















 

               
            完
  
  上記,TV中継画面の写真は「東海大学」(DVD)の放送研究部TV中継場面より引用させていただき
 ました。


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