演題:「あの日のラジオ局,その現場から」
    茨城放送 報道局    
 鹿原 徳夫 氏
     
(1990年 文学部広報学科広報メディア課程卒業)

 講演講師紹介:佐藤貴仁氏(現OB会総務担当)(1990年 工学部通信工学科卒業)
    本日、総会に先立ち講演会を執り行わせていただきます。
 講師は私と同期の鹿原徳夫さんです。鹿原さんの略歴は、1969年2月に青森県三沢市生まれです。
1969年というと、放研60年の歴史の中で真ん中くらいの年になると思います。1987年文学部広報学科
広報メディア課程に入学され、同時に我々と一緒に放研に入部しました。
我々の時代は毎日17時から1時間半ほどFM放送を塔屋3階から放送していましたが、そのなかで個性
的な番組を作って放送していたというのが印象に残っています。現FM青森のアナウンサー、鈴木耕治
さんとの掛け合いで番組を作っていて、これも印象に残っています。
 箱根駅伝がNHKからNTVに変わった年ぐらいでしたが、その頃高校野球でよく出場校紹介のビデオ
など出たりしますが、それをNTVでやっていて、その時のビデオ作りを放研がやっていて、ナレーション
を鹿原さんが担当したと言うこともありました。
 3年生になると上級生として後輩にアナウンス指導などもされていました。1991年に卒業して茨城
放送に入社されました。
 キー局ではないのでいろいろなことをやって、取材レポーターやワイドショーとか、番組のディレクターとなどもやっていました。
2011年10月、報道部門に移って現在に至っています。本日の講演のタイトルは、「あの日のラジオ局、その現場から」です。
それではよろしくお願い致します。

 YouTubeに私の番組がUpされていたらしいので、参考まで聞いていただ
こうと思ったのですが・・・ (番組の一部が流れる)
・・・ 2年前のちょうど今頃の番組です。茨城放送と栃木放送、どちらもAM
単営局ですが、2局ネットで放送しておりまして・・・・。
ざっとこんな感じでやっていました。

 今日はお招きいただきまして有難うございます。
 今日は初めてOB会の席にうかがったのですが、大先輩の方々から現役
の方々がいらっしゃって、放研の歴史のなかで、私は中間あたり、44歳だ
と中間管理職的立場になるでしょうか。佐藤さんから講演をしてくれという
申し入れがあって、放送局に就職したからということで依頼されたと思いま
すが、AM単営局という、今となってはオールドメディアに近いような訳です
が、しゃべったり、作ったりしている仕事をしているなかで・・・、昨年渡邉先
輩が震災の時のお話しをされてようですが、実は茨城もかなり震災被害を
受けていまして、衆目はどうしても東北3県にいってしまってしばらく経ってから、「茨城も!!・・・」みたいな感じもありました。
茨城県の橋本知事が復興庁に諸々の要望書を提出したときに。タイトルが「茨城も忘れないで」という本当の話ですが、それく
らい茨城はすごく置いて行かれたという、言われもない差別を受けてしまったのですが、そんな話をしようと思っていたときに、
佐藤さんから、少し放研時代の話も入れてくれと言う依頼もあって、今日の話のタイトルは「あの日の放送局、
その現場から」ということですが、放研時代のこともいろいろお話ししたいと思います。
 当時FM−TBCという放研のラジオ局ですが、そこで先ほど出て来た鈴木さんといろいろな事をやっておりまして、その辺の
話もしてみたいと思います。
 
 あらためて自己紹介をしたいと思いますが、実は私の略歴はWikipediaに載っておりまして、そこには出身地や東海大学卒と
いうことが出ています。ここには私は米倉涼子の大ファンと書いてありますが、誰が書いたのか、何でこう書いてあるかは分か
りません。昔安達祐実のファンだとか、モー娘のファンだとか、何となくキャラかなと思ったりしますが、若い皆さんに是非言い
たいのは、ネットに書いてあることは全て正しいとは限らないということです。(笑い)
 実際に仕事の現場でも、人前に立って話すことがありますが、その時に
wikipediaから持ってきて紹介する人がいて、「米倉
さんの大ファンなんですってね」といつも言われてしまうんです。仕事はきちっとやってくださいね。   みなさん。(笑い)
 小学生の頃からアナウンサーで飯を食おうとか、放送局って面白そうだなとか、中学の頃、当時吉田照美さんが文化放送の
局アナでおられて、この人の番組などよく聞いていて影響を受けました。80年代初めごろはオールナイトニッポンで“奇跡の1週
間”と言われた時代があって、月曜が中島みゆき、火曜が所ジョージ、水曜がタモリ、木曜がビートたけし、金曜が山口良一
(当時、欽ちゃんの番組が大人気だった)、土曜が笑福亭鶴光という、今考えれば木曜のビートたけしのあと、第2部が明石家
さんまだったという、ものすごい時代でした。その時代の影響を受けて放送局にあこがれるようになった訳です。それがどう繋
がっているか分かりませんが、広報メディア課程にすすんで、今考えればあまり関係なかったかも知れませんが・・・・
 
 昨日茨城県南部に牛久市というところがあって、最近落語をやっていて三遊亭圓窓師匠という、昔大喜利のメンバーだった
方とご縁があって、今、圓窓師匠が月1回茨城県に来ていて、我々素人に稽古をつけてくれているのですが、昨日落語を披露
するというか、呼ばれて落語を一席やってきたのですが、その打ち上げの場にたまたま居たスタッフの一人が、「鹿原さん何○
ですか?」と聞かれ、この質問は東海大以外には通じない言葉なので、聞いてみたら「私5○の劇研です」と言うので「私7○
です」と言うような会話があって、さらに「私オダサガに住んでおりまして・・・」“オダサガ”というのは小田急相模原のことで、私も
その辺に住んでいたので、やはり世の中狭いなと感じた次第です。1987年に入学するとまず7がついて、それに0がついて、何
でゼロになったかは分かりませんが、卒業するときに1とか2がついている人がいて、何でそうなったかは先輩に聞いて下さい。
その後にアルファベットが2つあって、私は文学部広報メディアだったのでLMとついて、それが学生番号という時代でした。
ある一定の時代以降の放研の仲間では、あなたは“何○?”というのが先輩か後輩かを確かめる時にそういう聞き方をすると
いう、そんなことがありました。
 87年に青森の片田舎から出て参りまして入学して放研に入部し
ました。小田急相模原は急行が止まらない、それだけで家賃が
1万円くらい安くなる、風呂がついていなかったので、さらに1万円
安くなると言うわけで、私は6帖1間風呂なしで月19,500円という
ジャパネットもびっくりという所に住んでいました。
晴山荘という所でしたが、口の悪い連中は皆それを“つぶれ荘”
などというマンガに出て来そうな所に住んで通っていました。
テレビとかラジオに行きたいと言いながら、テレビも持っておらず、
ラジオだけがあって、そういうところで鈴木さんという人と出会いが
あって、彼は岩手県水沢市(今の奥州市水沢町)出身で、東北つ
ながりで、彼もアナウンサーをめざしているという中から話しがはず
んで、当時塔屋からミニFMと言っても、ワイヤレスマイクで電波を
飛ばしている程度のもので、法的には半径100mくらいに電波です
が、それで放送するというのが当時放研の活動でした。
塔屋から100mぐらいしか飛ばしてはいけないということですが、先
輩よっては伊勢原で聞いていたとか、オダアツ(小田原厚木道路)
を走りながら、カーラジオで聞いていたという話もあったようです。
 我々も1年生の6月頃から、そろそろ番組をやりなさい、と先輩から言われ、そこで鈴木君と二人で何かしゃべる番組をやろう
ということで、タイトルをどうしようか、ということになり、彼は鈴木耕治君という名前で、中学・高校時代から“スコ君”と呼ばれて
いたそうで、何処だったか正確に覚えていませんが、都内の大学の発表会に行ったら、ニッポン放送の上柳昌彦さんという方
が講演されていて、スコ君も私も上柳さんのしゃべりが好きで聴いていましたが、彼が「放送局に行きたいなら、何でもかんでも
経験しておかないと駄目だ、私もいろいろやって、インドへ行っとけば良かった」などとポツリと話したのですが、鈴木君がやたら
この言葉に反応して、番組のタイトルを「スコちゃん・カバちゃんのインドへ行こう」と言うのにしようということになって、放研の歴
史にも残るタイトルですが、「何だそれ?」と言うタイトルですが、これが卒業まで続いたという・・・・・。当時鈴木君と同学年の柏
原知幸くんがディレクターをやっていたのですが、彼は卒業後東京スポーツへ行ってプロレス担当になって、そのあと巨人担当
になったのですが、彼の結婚式の時に、松井さんから花束が贈られて、何か偉くなったな、というエピソードがありますが、そん
な面々でやっていました。
 どういう内容だったかというと、30分番組で前半はフリートークをしよう、何かテーマを設けて、それについてしゃべろうという、
後半はコントっぽいミニドラマをやろうという構成になっていて、その間にコマーシャルを流そうと言うので、コマーシャルも作っ
て、それもただ宣伝をするというのではなく、何か世の中を皮肉ってやろうというので、(今は)詳しくは忘れてしまいましたが、
覚えている中では、「青森県」というCMがあって、当時横浜から生ゴミ持って行って青森へ捨てていたと言う話があって、そこで
生ゴミから核のゴミまで、何でもござれ青森県!!」なんてCM(これは商業放送では絶対に流せませんが・・・)、これを流せるのが
大学の放研なんだという、当時の文連から社会に影響を与えようなどという話もあったり、良かったのか悪かったのか分かりま
せんが、80年代半ばごろの放研はいわゆる“放送ごっこ”などをやるな。とうい風潮のなかでやっていたので、その中に何かメッ
セージ性のあるものを入れるようにしていました。ニュースっぽいものもやりまして、夕刊を読んでニュース番組をやったり、レポ
ートなどもやりました。
 ある時、学食のメニューががらりと変わったことがあって、平成元年6月だったでしょうか、何が変わったかというと、天ぷらそ
ばのエビが豪華になったとか、オムライスの添え物が多くなったとか、その一方で100円のかけそばが無くなった。
そこで我々が取材に行き、「どうして無くなったのですか?」世の中バブルに突入するころでしたから、「学生さんの舌もこえてき
て、メニューの多様化に対応するため」ということで、豪華になったかわりに安いメニューが無くなったという話ではありました
が、我々の青臭い話ですが、“社会に対してメッセージを”、“今の世の中はこれでいいのか”、などという気持ちがあったので、
「これは消費税導入の便乗値上げと違うのか」と問うと、担当者はウッと詰まったような感じで「そんなことはありません」なんて
言っていましたが、夏休み明けから安いメニューが復活していました。我々の影響力があったかどうか分かりませんが、これを
放送ごっこと言ってしまえばそれまでですが、そこに何か放送研究部なりのものをやろうじゃないかという意気込みが結構あっ
たような気がします。
そんな放研時代もいろいろありましたが、3年の建学祭が終わった後には、アナウンサーをめざす
人は、当時恵比寿にあったアナウンスアカデミーに行って勉強しながら就職情報を集め、全国行
脚に出るというのが、めざす人のパターンでした。当時世の中はバブルでしたので、リクルート社
から「会社案内」という、まるで百科事典の10巻セットみたいな資料がドーンと送られてきて、会社
名が50音順に並んでいて、それぞれ会社ごとに資料請求のハガキがあって、私はとにかく放送局
に行く、アナウンサーになると決めていましたので、その資料は見ませんでした。漏れ聞いた話で
すが、ある会社の会社説明会の案内が来て、「会社説明会に印鑑を持ってきて下さい」と言われ、
何に必要かと思えば、書類に印鑑を押せば内定がもらえたなどという時代でした。
今じゃ考えられないですよね。半分都市伝説ですが、例えばJ社の内定をもらった人たちが、9月
10日から4泊6日のハワイ旅行に事前研修という名目で、会社持ちで連れて行く。
その間国内では、競合K社の入社試験がある、つまり受けさせないために、競合B社に行かせな
いために皆連れて行ってしまうという、当時求人倍率が2倍とか3倍とか言われた時代でした。
 私はそう言うこととは一切関係なく就職活動をしました。当時40社ほども放送局を受けて回りまし
た。実家が青森ですので、さすがに九州、四国は厳しいかなと思い、大阪から東の放送局を受け
て回りましたが、まことしやかな話があって、あそこの写真館で写真を撮ると受かるという、そこで撮った写真で3カ所落ちたら
写真館を変えろ、などという。私はフジテレビは写真で落ちたと思っていますが、NHKを受けたら筆記試験が受かって、これを
通ったら8割5分大丈夫と思っていましたが、アナウンサー試験というのは、テレビ局はカメラテストというのがあって、これは容
姿を見るためではなく、あくまでカメラ写りが良いかどうかを見るテストみたいです。皆さんもテレビのニュースを見ていて、どん
な重要なニュースであろうと、世の中がひっくり返りそうなニュースであろうと、やはり最初に出て来たアナウンサーの姿を見て、
今日はネクタイが派手だなとか、以前NHK・東京で登坂さんというアナウンサーがいて、ニュースを担当されていましたが、
視聴者から“最近白髪が多くなった”として話題になったことがありました。やはりテレビに映ると言うことは、どんな情報を流そ
うと、目から受ける情報が最優先されてしまうと言うわけで、私はNHKはカメラテストで落ちたんだな、と思っています。捨てる
神あれば拾う神ありで、結局ラジオしかやっていない茨城放送に拾ってもらって91年4月に入社しました。

 入ってから気付いたことですが、ラジオはテレビ以上にシビアなところがあって、ラジオは聴いている人は声だけで勝手に顔
を想像するんですね。入社2年目から4年目まで、小学生から中学生までぐらいを対象にラジオ番組を担当していて、当時はハ
ガキが寄せられて、似顔絵らしきものが書かれていて、いかにも星が瞬いているようなイラストを画いて来られるわけですね。
そのあとラジオイベントで公開録音をやると、大概の人が「想像していたのと違いますね」なんてね、大きなお世話だと言いたく
なります。ですから公開録音に来るときは、自己責任で来て下さい、などと言ったりしたものです。
 「ラジオはテレビ以上に貴方が映されていますよ」と言われたことがあります。テレビは映像で強い印象を与えるのに対し、
ラジオは映像がないので、聴いた人の心の中で映し出されます。私がしゃべった言葉だとか、インタビュー相手がどんな話を、
話し方をしたかとか、そこで聴いている人が「こいつ感じ悪い」とか、ラジオは何気ないフリートークの中でにじみ出てきてしまう
んですね。それがネタとして言っているか、本心としていっているかは、聴取者には分かってしまう、だからラジオは怖いのです。
原稿を読んでいるのは、まずバレます。つまり、この人は本心で話しているのではない、ということがすぐ分かってしまうのです。
ラジオとはそういうメディアなのです。ラジオで好き勝手にしゃべっていると思われがちですが、いつも聴き手と向き合って話して
いることを忘れてはいけません。ラジオのトーク番組で、日曜朝、TBSの安住紳一郎さんの番組がありますが、彼はオープニン
グで30分しゃべる、ひたすらしゃべる。それだけで番組として成立するような時間をしゃべり通す。そこに安住さんの人柄であっ
たり、彼のものの見方、世の中をこういう風に見ているのか、ということをオープニングから伝わってくるのです。AKBの総選挙
の話題の時は、やはり気を遣いながら話しているのだなということが伝わって来ます。
 私は今年44歳になりますが、生まれてからこれまで経験した、見た、感じた、しゃべった、ふれた、そういったものが全てさらけ
出される。そう言うなかで、こいつこんなことも知らないのか、とかちょっとひねくれているなとか、そういうことがそこで出て来てし
まうということです。
 茨城放送はAMの単営局でいわゆる全国ネットという番組はありません
ので、謂わば小さいエリアの中でこまごまやっている訳ですが、とはいえ
アナウンサーといってもしゃべるだけという訳にはいかず、プロデューサ
ー、ディレクター、スポーツ中継、選挙報道、事件・事故など、1999年に
東海村のJCO(住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設)で臨界事故
が発生して、取材に行ったのですが、住民のみんなは外にいると被爆す
るので、指定の避難場所に集められていて、人っ子一人いなくなった街
を、車で通ってそこへ向かう訳ですが、そこには家も普通に建っている。
地震だったら被害にあった家屋など光景があるが、そうではない。その
時ふっと「地球が滅びるとはこんなことかな」と思ったりしました。
そんな現場にも出かけたりしました。それから「チョットタンマ」という番組
がありました。これは私が作った月〜金の25分間の番組でしたが、当時
受験生向けのラジオ講座の番組でしたが、世の中が世の中だったので、
スポンサーであった受験講座をやっていた会社が倒産してしまった。
さて、この25分間の枠が空いたのでどうするか、ではとりあえず音楽でも
かけて埋めようということになって番組を作りました。まさにその時の状況が「チョット待って」という様子に似ていたので「チョット
タンマ」というタイトルになった訳です。それが茨城放送の“野放し番組”と言われましたが、好き勝手なことをやっているのです
が、そこにちょっと一本筋を通すというか、違った角度からモノを見てみませんか、という気持ちを込めて番組を作っていました。
遡っていくと自分たちがFM−TBC時代に「スコちゃん・カバちゃんとインドへ行こう」というのが原点であって、公共放送の場で
今はやっていますが、ずっと遡っていったら、放研時代につながっていたと言う話です。その番組は6年間続きましたが止めた
時に、何か大学の時に似たようなことをやっていたなということをその時に気づいて、やはり大学時代のことが自分の中で染み
ついていたと言うことですかね。それが良かったか、悪かったかということではありませんが、それが良い番組だったか、時間つ
ぶしの番組だったか分かりませんが、自分の中では大学時代のスピリットが生き続けている番組だったと思います。
  さて3.11大震災の時、金曜日でこの日は栃木放送
と「IT’sきたかん」という番組をやっていて、その準備の
ための編集作業をやっていました。そこで地震が起き
たのです。最初は何処で起きた地震だか分からず、関
東なのか、それとも遠いところの巨大地震なのか分か
らない。その時まずやったことはドアを開けに行きまし
た。とにかくまず避難経路を確保しようと思ったわけで
す。「あいつは逃げ足が早い」などと言われても困りま
すが、閉まって開かなくなると困るととっさに思い、その
時自分は2階に居ましたが、4階のスタジオに駆け上が
って、ドアを開けたところ、その時女性アナが必死に揺
れるマイクを押さえていました。脇に本棚がありました
が、それが倒れてきたりしました。これはどういう地震な
のだろうか?
とっさにどこからの指示もなく、なんの迷いもなく、この
CMは飛ばしても良いんじゃないかと判断し、そのあと
40秒のCM飛ばしてしゃべり出したのが始まりで、それから延べ200時間、茨城放送からはCMが流れませんでした。
延々と震災関連の情報というか、生活関連の、どこで給水車が来ているとか、何処のスーパーが営業しているとか、そういう話
をしておりました。そのあと大洗という町で津波がくるという話ですぐ飛んだ。海から1キロほど離れた所に行ったら、その少し手
前まで第1波の波が来たということを言われて、しばらくして町内の防災放送で“第3波が来ている”というのが流れました。
我々は中継車で行ったのですが、車を置いてその道路の反対側の所で取材をしていたら津波が襲ってきて、そこに油断があっ
たのですが、最初の波がそこまでしかしか来なかたのだからと思ったら、自分の立っているところと中継車の間に川が出来てし
まった。家を押し流すほどの波ではなかったですが、その先に船溜まりがあって、そこに水の流れが出来て、まさに大洗町が水
で分断されたような光景でした。
とにかく中継が終わって、社に帰って、それから3日間泊まり込みで、生活情報を中心に放送しました。テレビはとにかく地震の
被害映像を送り続けていたし、ラジオは自ずと役割分担が出来たのかなと思いますが、生活安心情報を送り続けました。細か
い情報ですが、水戸のコンビニの情報などは、その北にある日立市とか、南のつくば市の人たちにとっては、水戸市のどのコン
ビニが開いていようが、そんな情報はどうでもいい、送り手の我々自身もこうした情報を流しながら“何の役にたっているのだろ
う”と疑問を持ちながら伝えていました。でも、あとあと聞いてみると、日立の人たちは、そうした情報を聴いて、「水戸はここまで
戻ってきているのだ、じゃ日立はもうすぐかな」という気持ちで聴いていたという話がありまして、これは我々は全然想定していま
せんでした。一つの地域情報が当該地じゃない人たちにどう受け止められているかは想像もしていませんでした。情報というの
はいろいろなとらわれ方、使われ方があるのだなということを改めて知りました。
 ラジオを聴く機会が少なくなったという話をよく耳にしますし、若い人の中には、ラジオの聴き方が分からないという人も実際に
いるそうですが、今はインターネットの“Radiko”で聴けたり、スマホアプリで聴けたりしますが、たまにはラジオを聴いてみて、
しゃべっている人の息づかい、人生観など、ちょっとそこで感じてみたらどうかなと思います。自分もTwitterやLINEをやっていま
す。Facebookはあまりやっていませんが、Twitterは昔のラジオ番組と一緒で、身近に何か面白いことがあったので伝えようとい
うことで書き込む、昔はラジオが拾い上げてしゃべっていたという時代だったと思います。最後は宣伝ぽくなってしまいましたが、
ラジオを聴いてみて、皆様の生活の潤いになってもらえればと思っています。私のラジオの原点はTBCにあったということをお話
しして、お話しを締めくくりたいと思います。
 
《司会:佐藤貴仁》
 どうも有難うございました。久々に「スコちゃん・カバちゃんのインドへ行こう」という番組を聴いているような雰囲気になりまして、ここにいる当時現役(同)時代の人も懐かしく聴かれたと思います。現役生にも、OBにとっても興味深い話を有難うございまし
た。折角の機会ですので、いくつか質問を受けたいと思います。

《Q》
 現役4年生の坂井です。震災の時の話をお聞きしたいのですが、元々震災があったときのマニュアルというのは作られていて
配備されていたのでしょうか?それともあれほどの大災害でマニュアル通りにいかなかったということもあると思いますが、如何
だったでしょうか。

《A》
 マニュアルはありますが、マニュアル通りにやったかどうかは分かりません。少なくとも地震が起きた時に、何をしゃべるかと
言うことを、それなりにしゃべっていました。3月だったので火を使っていたこともあったかも知れませんが、一昔前だったら、
「すぐストーブの火を消して下さい!!」などと話しましたが、エアコンだとかファンヒーターになって、自動消火装置が働くようになっ
ているし、ガスコンロの火も、振動を感知して自動消火される時代で、「火を消して下さい」と言うことも今は言わなくなってきてい
ます。とっさに動いて、粗相してやけどしたりするリスクがある。
今はとにかく「自分の身の安全を守って下さい」と、まず言っています。「避難経路を確保して下さい」とか、「倒れやすい家具か
ら離れて下さい」とか。マニュアル通りにやったら、今ではそぐわないものがあるかも知れません。ちなみにかつてオールナイト
ニッポンで鶴光さんが、放送中に地震が来て、「みなさんすぐにストーブの火を消して下さい!!」と真夏に言ったそうです。(笑い)

《Q》
 東海大学文化部連合会、学生証番号
1BJJ3108森泉匠平です。(鹿原:「いるんですね、こういう学生さん」)
鹿原さんにとって、一言で「ラジオ」とはどのような存在でしょうか?

《A》
 ウーン・・・『絆』とか・・・?
 “ラジオとは”と聞かれたら、ラジオは「人」でしょうね。テレビでは映像で3Dと
かCGなどでいろいろな世界を映し出すことが出来る。
ところがラジオはひとの声しかない。しかもその人の声で、いろいろな言葉で
いろいろな表現をする。言葉を駆使して、映
像でいう3DやCGの異次元の世界や、たとえば宇宙空間を漂う世界を伝えな
ければなりません。だからラジオは人がしゃべり、人が聴くというものだと思い
ます。ちょっと下ネタですが、若い皆さんの世代は、直接的なもので興奮する
んですよ。ところが我々より上の年代になると、小説で一番興奮するんです。
それは要するに想像力ですね。想像と言うのはリアルなモノ以上に激しいモノ
があります。いろいろなことを考えてしまう。映像は映像でしかない、年ととも
に直接的なモノに飽きてしまう。
時代もそのように変化して来たのかも知れません。いろいろなものを映像で見せすぎているのではないかという気がします。
このままでは語感が退化してしまう。言葉でコミュニケーションをとろうとすれば、聞く側も言葉の意味とか、ニュアンスとかが分
からなければ意味が伝わらないということになってしまうし、語感が研ぎ澄まされなければ、もしかしたら想像力も退化してしま
うし、そうなると、相手のことを考えない不用意な言葉を発してしまう、どこかの政治家のような人になってしまうとか、それが高
じれば戦争が起きてしまったり、殺し合いが起きてしまうことにもなりかねない。やはり人間は想像力が養われないと、政治一
つやるにしても、言葉を疎かにしてしまうということは、一番危険なことではないでしょうか。
 ところで何でしたっけ、質問は・・・・

《Q》
 2年の金子遙と言います。
 現在放研の活動は3年生と2年を中心に、FMラジオの番組を週1回持たせてもらっていますが、番組制作に関して、メッセー
ジとか、“喝”とかいただければ有難いのですが。
《A》
 茨城放送でも“ご当地アイドル(仮)”という、皆さんぐらいの年代の人たちが
番組をやっていて、そういう番組でしゃべっているような声だなと思って聞い
ていました。(笑い)
 なにもそんな大げさなものでもありません。あまりかっこいいことをやろうと
思わないで、つまり“自分”で良いのです。あまり背伸びをして、政治を語れと
言われても無理な話ですし、無責任なことは言えない訳だし。
 一つだけ制作者の感覚でお話しすれば、聞いている人がいるという感覚だ
けは忘れないでほしいということです。内輪話しであったり、楽屋話しであって
も、最近のお笑いタレントが、よくこんな話をしていることに批判があると思い
ますが、一方で、それが芸になっている人がいる。我々が会ったことも見たこ
ともないマネージャーの話をしていて、それが一つの話芸になっているのは
確かです。でもそれはただ内輪話ではない。その人は「こんな面白い人がい
て、こんなけったいなことをやったんだ」ということをお笑いの芸としてやって
いる。どこに違いがあるかというと、その人はテレビの向こうで万人が視ている、聴いているということを意識しているからこそ
芸になっているのです。演出がされているかも、デフォルメされているかもしれませんが、それが計算されて話していれば、内輪
話ではなくなるという訳なんですね。やはり常に聴いている人がいる、ということを意識して語れば、内輪話でも話芸になるので
す。聞く側の人たちにも共感を持つ人が出て来ると言うことです。それがなければファミレスでおしゃべりしている女子大生の
会話にしかならないということです。

《司会》
 鹿原さんの話を聞いて、東海大学放送研究部の現役生のなかにも、これからラジオ関係に進みたいとあらためて思った方が
いるかも知れません。鹿原さんのお話しが、私の人生の
intersectionになったというようなことがあるかも知れません。

 時間がきましたので、今日は本当に有難うございました。
 鹿原さんの益々のご活躍をお祈りして、今回の講演を終わります。

  《拍手》

以 上