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はじめに
前回の続きで2号館を中心とした,いろいろな話題を取り上げてみたいと思いますが,今回は2号館と放送
研究部の関係について触れてみます。
その前に一つ,皆さんにご理解いただかなくてはならない点は,
2号館は当時の教職員,学生にとっては格別な場所でした。
なぜならば,今のように多くの教室や目的に応じた施設・設備が
あるわけではないので,何かの行事を考える場合にはすべて,
この2号館を中心に計画されました(当時の学生数は湘南校舎
だけで約4,000人程度でしたから)。つまり,私たちの時代は何
をやるのも2号館を中心として様々な行事が計画されました。
その代表的なものが「新入生歓迎会」,「リリーイワノアの公演」,
「ローヤルシェクスピア劇団の公演」などで,「ローヤルシェクスピ
ア劇団の公演」で,非常にびっくりしたことがあります。
それは,打合せの段階で舞台に何本マイクを立てるか,吊りマイ
クは何本にするか?いろいろと検討していました。
学校ではコンデンサーマイクを中心に多くのマイクの準備をしていました.。
(当時,S社のコンデンサーマイクの38A(今は38B)を数本持っていました)
しかし,劇団からは「マイクは不用」とのことでした。後で聞いた話ですが,彼らは50m位の距離はマイク
なしで十分届く声量を持っているとのことでした。(日頃そのような訓練をしているとのこと・・・)
(このことはその後,別の学校に勤務した時にも同じことを担当者が劇団の方にいわれたそうです。)
しかし,それにしても「すごい!」 の一言です。(このときの写真がないのが残念です。)
この時担当したわれわれは,いろいろな準備に追われ写真を撮る余裕がありませんでした。
1.新入生歓迎会
昭和40年頃,「5月という時期は大学の新入生にとって一つの危機」とい
うのが定説となっていた時期でもあり,「5月危機」とか「5月病」などいわれ
ていて,当時はどこの大学でも問題となっていました。
これは大学に入学した新入生にとっては,「入試の重圧から解放されて
生じる虚脱感,家庭から離れて一か月経ってのホームシック,入学前の大
学と現実とのギャップ,学習上の不安感などから新入生が精神的に不安
定な状況に陥る」といわれていました。
東海大学では「新入生歓迎会」として新入生相互の親和,先生方,父兄
の三者が親睦のため湘南校舎に集まりました。
午前中は教師を囲んで人生,思想,友情,勉強,クラブ活動などさまざまな
話題で話し合いが行われ,午後からは「総長の挨拶」をはじめ,各クラブの
紹介等々が企画され,模擬店もだされました。
昭和43年5月19日(日)に開催された新入生歓迎会は全教職員が出席
したとの記録が残っています。この日は小雨模様だった関係で,模擬店は
2号館2階のロビーに出展されました。(左の写真)
この点を東海大学新聞(1968.05.15発行)では
「5月危機」を克服
湘南校舎に「対話の場」
初めての試み グループごとの懇談も
という見出しで報じています。
2.卒 業 式
2号館で最初に卒業式が行われたのは,昭和41年度の卒業生からでした。
式典の後は初代松前総長が卒業生一人ひとりと握手をするという光景が記録にあります。
卒業生の方々の感激はいかばかりか・・・
私の卒業式では大ホールのスクリーンに
「さようなら!ご壮健で」という文字が映し出されて,教職
員の方々のご配慮に感激しました。
卒業式が終わると大ホールの反対側にある小ホールで
卒業記念パーティがありました。
全体の学生数が少ないこともあって,パーティー会場では
学部・学科を超えて楽しいひと時を過ごすことができたこと
も楽しい思い出のひと時となりました。
周辺の環境も学内の環境も「まだまだこれから」という時代では
ありましたが,学生にとっては多くの思い出が,一人ひとりの学
生の胸にきざまれた,学生生活。
不安を感じながらも,期待に胸を膨らませたひと時でした。
それにしても,本当に楽しい思い出深い日々を過ごせたことを心
から感謝しています。
今,思うとあの頃は教職員も学生も本当に一生懸命だったよう
にも思います。もちろん,質の差こそあれ,今の教職員,学生の
皆さんも同じと思います。
そんな湘南校舎も今年で50年を迎えました。
あのころから見ると,中央の道路,富士見通の両側の木々も
大きく,緑深くそびえ,学園らしさを強調してくれています。
そんな環境の下で勉強できる今の学生諸君は羨ましい限りです。
3.出会い
詳細は私にもよくわかりませんが,当時の委員長日比忠敏氏がよくご存じだった,故小城久男先生(以下
K先生と記述)をわれわれ後輩に紹介してくれたことから始まります。(私事ですがこれがきっかけとなって,
K先生に卒業後もご指導いただくことになるとは,その時は想像もつきませんでした。)
あれは私が2年生の時の建学祭だったように思います。建学祭でクラブ紹介を2号館で実施することになり,
はじめて大ホールを舞台として使うことになりました。「~その1~」でも書きましたように,とにかく大きな教室
で何から手をつけていいのか困惑していました。その時,K先生が現れ,電源・音響・ライトに関することを
それは丁寧に教えてくださいました。しかしその反面,先生は非常に厳しい方でもありました。
放送研究部としては2号館を使ってこのような行事を担当することは「ショー番組の研究」ととらえていました。
ですから,当日の企画,進行,司会,照明,音響などすべてを放送研究部が担当することになります。
2号館には舞台の上部に2列のボーダーライトが設置してありました(数としては十数機あったと記憶してい
ます)。また,一番奥にはホリゾント用として別に設けられていました。それらのライトは劇場のように電動で上
下するようにはなっていませんでした。そこで登場するのが「ローリングタワー」です。
当時,学校はさまざまな工事が計画されていたこともあって,いろいろな所に建築工事などで足場などに使う
ポールが置いてあり,それらは建学祭の時期になると望星会,文連,体育会が目的に応じて使わせてもら
っていたように思います。そのポールを約9mつないで図のようなタワーを作り,その上に乗って,ボーダー
ライトのランプ交換をしました。
しかし,タワーの上で人間が両手を広げても交換できるランプの数は限
られています。4個位交換したらローリングタワーごと舞台上にいる部員
が押して移動,上にいる部員(当時は主に私)がランプ位置を確認しな
がら進みましたので舞台幅いっぱいに移動するにはかなりの時間がか
かりました。しかし,このランプ交換が終わらないと舞台上の「色合わせ」
ができません。また,この作業をしている間にゼラチンを挟む枠(名前は
忘れました)に赤・青・緑(またはアンバー(橙))のゼラチンを挟み込む作
業を並行して行っていました。
すべてのランプのチェックと交換が終わると,ライトの前にゼラチンを
はさんだ枠を挿入します。ボーダーライトは赤・青・緑・地あかり(電球そ
のものの光)で1組になっています。
当時,ボーダーライトは3回路と4回路の2種類があったと記憶していま
す。
この作業は組み立てから始まって約2~3時間位かかったと思います。
それから天井にセットしたスポットライト(1KW)のランプ交換や位置合わ
せなども行いました。天井裏には9本位のライトが設置してあったように
記憶しています。その他に左右に同じくスポットライトが設置してあり,す
べてのランプ点検と交換を行い,ようやく舞台の検討に入ります。
照明の他に技術はマイクの設置位置に合わせて,舞台上にマイクの延
長コードを這わせる作業が必要になります。発表団体の内容に合わせ
てマイクの本数やマイクの設置位置などの確認を行います。
上手,下手,中央にBTSー3Pコネクターが埋め込まれていてそれらを使って必要な場所にコードを延長しまし
た。(600Ω:バランス)当時,キャノンコネクターは高価で,われわれの持つ延長コードはほとんどがBTSー
3Pを使っていました。
技術は3階にある調整室で音楽,マイクなどのチェック。特に難しかったのは舞台中央に設置されている
エレベーターマイクの高さを出演者に合わせて上げることでした。技術課の課員はそれぞれ何度か練習した
ものです。何せ,舞台中央から調整室までは約40mあるので,高さの感覚をつかむのが大変でした。
このような経験をしたおかげで,2号館の「廊下,通路,舞台裏,舞台袖,天井裏の状況がどうなっているか」
「どこを通れば一番早く目的の場所に行けるか」などを知ることができました。
これらのことがきっかけとなって,春の新入生歓迎会でのクラブ紹介や建学祭のクラブ紹介など2号館で行う
場合は放送研究部が中心となって実施することが恒例となりました。
この二つの行事は毎日行っていた定時放送(12:30~12:50,12:50~13:00までの10分間は教務課
と学生課からの連絡事項に使っていました)に加えての新しい内容となりますので,大変といえば大変でした。
しかし,部員が一丸となって取り組んだことで,大変思いで深い事柄となりました。
こんな思い出を書いていたら,学生時代に戻ったような錯覚に陥ります。
ここまでの写真は雑誌「東海」(NO5号P40,NO7P14・P15,NO15P2)から掲載させていただきました。
なお,掲載にあたりましては学園史資料センターから許諾をいただいております。
~ おわり ~
補足記事 ~ アーク光源の16mm映写機 ~
「よもやま話~1~」の原稿を書いてから,今までずっと「RCAの16mm映写機~アーク光源~」の写真を
探していましたが,なかなか探すことができないでいました。学園史資料センターはもとより,いろいろな方
に伺ったのですが,どなたも写真や資料をお持ちではなく,困っていました。
理由は今の若い世代の方々が映写機で光源にアークを使っているものがあったことは多分想像もできな
いのではないかと思い,写真でも見せられたら・・・なんて思っていました。
先日,RCAではありませんが基本的には変わりのないエルモ社の映写機の写真を,千葉大学工学部の
オリジナルサイトの「DIGITAL MUSEUM ~収蔵品資料室~」でようやく見つけることができました。
右の図はエルモ社のアーク光源を使った16mm映写機の光源部分だけを切り取った画像に説明を加え
ました。
アーク棒は燃えているため時間がたつと二つの
棒の間隔が広くなります。そこで,写真の両側
にある丸いつまみを回して両者(+棒と-棒)
の間隔を一定に保ちます。この間隔が離れす
ぎると燃焼が不可能となり消えてしまいます。
ですから,映写技師は映写画面とアーク棒の両
方に常に気を配っていることが必要で,大変な
神経をすり減らしていました。
カーボンアークランプは1960年代でも,日本
の映写機の光源として使われていました。
しかしながら,当時の映画フィルムは可燃性で
カーボンアークランプを光源として使用すること
は火災の危険と隣り合わせのため,発光部を
囲んだランプが求められていました。
さらに,映像も白黒からカラーへと転換する時期でもあり,色が忠実に再生でき,大画面でも明るく映写で
きる高輝度のランプが時代の要請となっていました。
右の写真はカーボンアーク光源の映写機 (エルモ社)を
床に固定し,アーク棒の発煙を排気するために中央上部に
排気筒を取り付け,部屋の外へ煙を出すように工夫をしてい
る。
したがって,写真からもわかるように装置も大型で設置する部
屋も換気が十分できるような部屋を必要としました。
また,上記の理由から本体は床に固定し,さまざまな振動で映
写機が倒れないような配慮がされていました。
この写真の使用については千葉大学大学院工学研究科の
許諾をいただきました。
関係の方々のご配慮に心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。
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