Essay  

我が故郷
1965年 通信工学科 卒業    小林 洋

東京湾に面した海辺の街「横浜市金沢区」農業や漁業に携わる人も多く風光明美な街で30年余を過ごした。
寺の多い街で我が家の菩提寺も残っている。今でも月ごとに墓参りで訪れるが昔、走り回った景色もなぜか
薄れてセピア色の写真とも一致しない。
埋め立てによる住宅地の出現や遠浅の海には八景島シーパラダイスが出現している。

 会社に勤務している時には幾つもの地域を住みかとして暮らして来たが現在、故郷と言えるのは神奈川県
横浜、兵庫県川西、そして今日の本題である東京都町田となる。

東京都とは言え我が終の棲家は都心より2時間近くかかるもはや辺境の地、相原町である。
最近でこそ住宅が増えてきたがまだ農地がぽつぽつと在り、直売所なども点在して美味しい野菜が手に入る。
古くは横浜港に繋がる絹の道として栄えたようで歴史を辿れば鎌倉街道(いざ鎌倉!)や徳川の家紋を容した
仏閣、松前重義博士が開発した無装荷ケーブルによる関西、旧朝鮮、旧満州に向けた東京からの中継所跡
(敷設されたケーブルは近くの大戸緑地公園で地中から露出して今でも見る事が出来る)、近年では第二次
世界大戦の終戦でポツダム宣言受諾の電文が発信された通信所、電波塔跡(法政大学多摩キャンパスに石
碑と礎石がある)など歴史遺産もある緑豊かな街である。
最近では中村雨紅の童謡「ゆうやけこやけ」の作られた町として、八王子(生誕の地)と並んでまちおこしをして
いる。おいおい、個々については投稿させて頂くつもりですが今回は珍しい街から見える景観をご賞味頂きた
いと思います。JR横浜線相原駅から仏像の寝姿が神々しく見える情景です。
相原の山並み
また、五穀豊穣を願って毎年、占う山の雪形が各地で有名です。相原町で望む丹沢山系にも馬の姿が現れて
耕作時期を占う手段にしていたようです。

これからも地域の歴史や祭りなどをご紹介したいと思います。

                                              1965年  工学部通信工学科
                                              文化部連合会 放送研究部 卒
                                                   小林  洋